9章 神の御業
<要約>
おはようございます。エステル記の結論的な部分に入りました。神はアブラハムとの契約を守り、ユダヤ人を祝福されました。この契約は、キリストにおいて私たちのものともなっている、このことを私たちは信じなくてはなりません。わたしたちもまた祝福となりなさい、と言われているのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.契約に忠実である神
「第十二の月、すなわちアダルの月の十三日、この日に、ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった。」(1節)。もし、ハマンの計画が実現していたら、ユダヤ民族はこの時絶滅していたことだろう。しかし、そうはならなかった。彼らは、捕囚の地にあって、生き延びていくのみならず、ますます勢力を伸ばすモルデカイとともに、虐殺する者に抵抗し、滅ぼす、逆転勝利をつかんでいく。それは、神がアブラハムと結んだ契約について、どこまでも忠実に守られてきたことを示すものなのだろう。
神がアブラハムと結ばれた契約は(創世記17:7)は、実際、アブラハムのみならず、アブラハムの後の子孫をも視野に入れ祝福する契約であった。後にイスラエルは神を捨て、自分たちの国を失い、奴隷とされる悲惨な運命を辿るのであるが、神ご自身はこの契約を反故にすることはなさらず、どこまでも忠実に守ろうとするのである。
パウロは、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました。・・・このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」(ガラテヤ3:14)。と語っている。私たちの人生には、横暴なハマンが現れることがある。無思慮で自分の栄誉を一心に追求するだけの権力下に放置されたような、希望を持つことのできない状況に置かれたりすることがある。しかし、たとえそうであっても、希望を失ってはならない。神はアブラハムに約束されたからであり、その約束はキリストによって私たちのものだからである。そして神は言う。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたをのろう者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:2,3)。
2.神の働きを認める
不思議なことに、神の御手が動くことにただ驚きをもって見守る時がある。神が御心としているのかもしれないと思われることが、形をなしていくことがある。ユダヤ人にとってそれは出エジプトに次ぐ、主の解放の時であった。過ぎ越しの祭りといい、プリムの祭りといい、まさに神の業としての歴史がある。戦利品に手がかけられなかったのは、これが神の御手によるものであったことが認められたからだろう。彼らは、これを機に、くじ(プル)の名にちなんでプリムという祭りを制定した。それは神のしてくださったことを想起し、忘れないようにするための工夫であり、ユダヤ人の歴史にはそのような工夫がたくさんある。彼らと同様に、カレンダーに神の奇跡を克明に記録し、神の御業を思いだす時を設けることが大切だろう。神の御手が動かされたことを祝う時を設けるのである。神は生きておられる。神は私たちを助けてくださる。今日も、生きて働かれる神を覚えて歩ませていただこう。