エゼキエル書34章

34章 良い牧者の約束(34:1-31)

おはようございます。人間の社会は実に愚かさに満ちています。人が人の上に高ぶる、絶対的な支配を思い知らされることもあるでしょう。しかし、まことの支配者は神です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.イスラエルの指導者への裁き

34章において非難されている「牧者たち」は、イスラエルの指導者です。イスラエルがなぜ、バビロンに滅ぼされる結果になったのか、それは、牧者たる指導者がいなかったためです。いわゆる悪政の問題である、と言うわけです。

実際、イスラエルの指導者たちは、モーセの戒めを忘れ(申命記17:14-20)、同胞の上に高ぶり、国民を支え、助け、癒し、保護するのではなく、ただ利用し、搾取し、支配したのです。彼らには、同じ人間である国民に対する思いやりも配慮もありませんでした(4節)。心なき政治です。

そこで、主のさばきが語られます(7-10節)。もう神は、このような指導者にご自分の民を任されない、と。神はそのような指導者たちから、ご自分の民を救い出し、自ら直接正しい裁きをもって彼らを養うと言います(16節)。そして実際に、神が国民に直接関わり、その羊の群れ同士の争いも解決してくださるというのです。

これは直接的には、バビロン捕囚のことを言っているのでしょう。しかしそれ以上のとても重要な奥の深いことを言っています。というのは、考えてみると、バビロン捕囚は、確かにイスラエルの指導者から彼らの国民を取り上げるものでした。そしてイスラエルの民は、バビロン国の住人とされるのですが、この間彼らは、バビロン人にはならず、神を長とする信仰の民として生き抜いたのです。彼らを本当に支配し、裁いたのは神でした。

なるほど、そのような意味では、人は神を信じた時に、地上の王ではない、神を王とする人生を歩み始めるのです。それぞれ地上の国に国籍を持ちながら、まことの神の御国の国籍を所有する二重生活をしているのです。そして、主たる生活は神の御国にあり、神が私たちの養い手であり(15節)、仲裁者として立っておられるのです(22節)。私たちはこの現実をよく理解し、神の恵みの支配に生きる者でありたいものです。

2.メシヤ預言

23節以降は、いわゆるメシヤ預言と考えるべきところでしょう。直接的には捕囚からの帰還と回復が語られています。しかしそれ以上のこと、つまりキリストにある救いと統治が重ねられて語られています(詩篇23:1、イザ40:11、エレ31:10)。目に見えない神の支配を覚えるというのは、具体的にイエスを自分の主として生きていく、新約聖書に教えられているイエスの教えとことばに従って生きていくことに他なりません。

この地上に起こる出来事のみに囚われて生きていてはなりません。この地上がすべてではないのです。ですからたとえ目に見える地上の国家に救いを見出せないとしても諦めてはなりません。この地上の国家をさばかれる神がおられ、救いも望みもない者に、キリストを主とすべきことを語られる神がおられるのです。「わたしは失われた者を捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」(16節)。

神がキリストを、私たちの牧者として起こしてくださったことを信じ、このキリストに従っていくことです。キリストは、同胞の上に高ぶることのない、神が立ててくださったまことの牧者であり、君主です。このキリストが、あなたを脅かし、抑圧する悪い獣を取り除いてくださり、「祝福の雨」(26節)となってくださるのです。またキリストが私たちの人生の実を結ばせてくださるのです(29節)。人が人の上におごり高ぶる支配に悩まされることがあるなら、その支配に優る、神の支配の中にあることを覚えるべきでしょう。