エゼキエル書38章

38章 ゴグとイスラエルの回復(38:1-39:29)

おはようございます。いよいよ回復のメッセージが、終末的な意味を持って語られてくる部分に入ってきました。ヨハネの黙示録との対比が面白いところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ゴグとマゴグの預言

ゴグは、マゴグの地の王です。メシュクとトバルの地の大首長と呼ばれます(2節)。メシュクとトバルは小アジヤ地方のことと言われますが、具体的に、マゴグがどこにあったのかは、正確にはわかっていません。ただエゼキエルが、これらの民族を「北の果て」(6節)に住む者として語っているところから、現在ロシアとして知られる地域に住む民族、つまり、古代文献ではスクテヤ人として知られる民族と考えられています。エゼキエルが生まれた頃、西南アジヤは北方から押し寄せた多数の遊牧民による脅威にさらされていました。エゼキエルはそのスクテヤ人が再び侵入することを預言しているのです。彼らは神の民に対して総攻撃をかけてくるのです。そして、17節以降、神に用いられたゴグは、滅ぼされることが記されています。バビロンの王ネブカドネツァルが、神の民を罰するために、神によって用いられましたが、それによって彼が奢り高ぶると、ペルシャによって滅ぼされてしまったのと同じです。攻撃者ゴグもまた高慢によって滅ぼされてしまうのです。

問題は、このゴグとマゴグの預言が、どの時代の、どんな出来事を語っているかです。これまでのバビロン捕囚からの回復を語る文脈からすれば、それは捕囚期以降の歴史に起こることでしょう。しかしそのような史実はなかなか見つけられません。実際の所、この38章と続く39章を文字通りに解釈するのは無理です。BC7世紀頃に活躍したリディアの王ギゲスのことではないか、と考える説もありますが、むしろ、ここは終末論的な文脈を考えて、象徴的に捉えた方がよいところなのでしょう。

つまり、捕囚からの帰還とイスラエルの回復の預言(36章)を語り、枯骨の幻(37章)によってその究極の姿を描ききった後(二本の杖の幻は、まだ実現していない終末的出来事と考えられる)、38、39章で、さらにエゼキエルは、その終末に起こる先の出来事について語っている、というわけです。

2.エゼキエル書と黙示録

そのように考えられる根拠は、黙示録の著者ヨハネが、自身の終末預言にこの箇所を引用しているからです(20:7-9)。ヨハネは、黙示録21章から終末の新しい天と新しい地の幻について語っています。その神の国が現れる直前の出来事として、悪魔的な勢力の神の民に対する総攻撃をこの箇所の幻から語っているのです。実際、8節、ゴグに攻められるこの国は、「国々の民の中から集められた者たちの国」つまり歴史的なイスラエルの回復とは違うのです。また、20節、ゴグの攻撃に伴う神の裁きは、終末的なファイナルシーンをイメージさせます。そこでヨハネのように、この箇所を象徴的に理解すべき、となるでしょう。なおヨハネは黙示録21章以降に、新天新地、永遠の神の都の幻を書き留めていますが、まさにそれは、エゼキエル書40章以降に描かれた第三神殿の幻と重なっています。聖書は聖書によって解釈されると言われる部分です。

ともあれ、ゴグについての預言は、終末的な神の民の守りが、主の熱心によってなされることを伝えています。どんなに、邪悪な力が神の民を押し潰そうと働くことがあっても(8、16節)、それは神の想定範囲のことで、神はこれをご自身の存在を知らせる目的をもった出来事とされるのです(23節)。大切なのは、回復の恵みの中に、安逸をむさぼってはならないことでしょう(8節)。「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」サルディスの教会が、突如滅びる運命を予告されたように(黙示録3:3)、目につきにくい信仰のひび割れに注意せねばならないのです。形式的な信仰に堕してはなりません。