神の与える霊的祝福は、二つの結果をもたらす。一つは神との関係の回復である。かつて私たちは霊的に死んでいた。霊的なことがわからず、霊的な事柄に喜びを持つことができないでいた。霊的に病んでいたのではない、死んでいたのである。だから、私たちは、神との関係に生きることもできないでいた。結果、私たちは世の流れに流されるままに生きていた。死んだ魚が川に流されていくように、私たちもこの世の流れ、よい家に住むとか、よい車を買うとか、よい学歴を身につけるとか、よい地位に着くとか、そんな価値に従って生きる毎日であった。また、サタンに従って生きていた(2節)。アダムのように、「神のようになる」と自尊心をくすぐるサタンのことばに惑わされて生きていた。最後に肉の欲の赴くままに生きていた。こうして私たちは、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(3節)となる。
しかし聖書は驚くべきことを語っている。本来なら見捨てられたはずの、弱く、不敬虔で、罪人であり、敵ですらあった私たちが神の大きな愛によって愛された、という(6節)。その愛はイエスの十字架にはっきりと示された。また神は、私たちを生かしてくださった(5節)。つまり罪の中に死んでいた、私たちに霊的な命を与え、神との関係を回復させてくださった。さらに神は、私たちを天に迎えてくださった。神は私たちにこちらへいらっしゃい、一緒に座りましょうと、私たちに親しみを示してくださった。それは、神が私たちを友としてみなしてくださった、ことに他ならない。最後に、神は私たちを守ってくださる。神の究極的な目的は、教会が永遠に神の恵みを喜ぶことにある。その上、神は私たちによい行いを備えてくださった(10節)。クリスチャンになるというのはいい子になることではない。結果的にいい子になることはある。祈り、賛美、献金、奉仕、慈善、あらゆるよい行いは、神が備えてくださるものである。
そのような神との関係の回復を前提に、次にパウロは、人間関係の回復があることを語る。まず、私たちは、ユダヤ人からは無割礼の者と呼ばれるような、つまり神とは関係のない人生を生きていた。たとえ宗教を信じていたとしても、実際に神を知っているわけではない。信仰の中心を失った者である。しかし、かつては遠く神から離れていた私たちも、今はキリストによって神に近くされている(13節)。キリストが私たちと神との関係を回復してくださった。そして同時にキリストは、人と人の敵意の壁を取り去った。ユダヤ人も異邦人もない。ただキリストにあって一つの民であり、一つの平和を享受する(16節)。
私たちの世界は争いに満ちている。職場、家庭にも争いは絶えない。そして実は教会にも争いがある。心の安らぎの場、平安の場である教会に争いがあったりする。パウロの時代もそうであった。だから手紙が書かれた。パウロの宣教により救われる者が多くなると、衝突も多くなった。しかしキリストにあって救われた者は、その衝突を乗り越える力を持つ。キリストにあって私たちは家族であり(19節)、主にある聖なる宮だからだ(22節)。教会の建物が聖なる場所なのではない。私たちの集まりが、神が喜んで住んでくださる場所である。神の助けにより衝突を乗り越え、神の祝福を受ける人間関係を実現していこう。