パウロは囚われの身であった。それは不名誉なことであったはずだが、パウロはそれをイエスのご計画による「務め」であるという。そもそもの事の発端は、パウロが、異邦人を神殿に連れ込んだと誤解されたためであった(使徒1:27)。怒りにかられたユダヤ人に、パウロは殺されそうになっていたところを、ローマの千人隊長と兵士に救い出されたのであるが、パウロは弁明の機会を与えられ、自分が救われたのは異邦人の救いのためであると語り、益々ユダヤ人を刺激した。結果パウロは、再び群集の暴力にさらされ、千人隊長は、パウロを保護するために投獄したのである。その後の裁判においても、パウロは、変わらずキリストにある罪の赦しを証し、キリストによって異邦人のための使徒として召されたことを頑なに証しし続け、ついに、ローマへと護送されることになり、ローマの獄中につながれることになる。これら一連の出来事についてパウロは「務め」であると言う。今獄中に入れられ、苦しめられているが、だからといって惨めに思うことはない。というのも、それは、キリストにある罪の赦しを異邦人に告げ知らせる使命を果たすための苦しみだというわけである。
次に3節。パウロは、「奥義」ということばを取り上げる。奥義は英語でミステリー、しかし聖書で言う奥義は、別に神秘的なものでも不可解なことでもない。キリストにあって、ユダヤ人、異邦人の区別なく全人類が一つにされることを言う(6節)。救いは、個人的な魂の救い以上のものである。キリストを通して、新しい関係が結ばれることである。この奥義はすでに旧約聖書において預言され、キリストにおいて現実的に語られるようになったものだ。宣教は、人々をキリスト者に回心させる以上の目的を持つ。多様性の一致を目的とする。
そこでパウロの第二の祈りがささげられる。第一の祈り(1:15-23)は、霊的な祝福を知ることを祈り求めていたが、第二の祈りは知っていることを活かすことを求めている。これらの祈りは、他の獄中書簡の祈り(ピリピ1:9−11、コロサイ1:9−12)と同様に、霊的な事柄を祈っている。パウロは、内側が整えられれば、外側も整えられると心得ていた。
まずパウロは「ひざをかがめて」嘆願する(14節)。祈りのための特別な姿勢があるわけではないが、パウロは、神の前に遜る心の姿勢を明確にしている。そして四つの事柄を祈っている。第一に、強くしてくださいますように(16節)。クリスチャンの生活に御霊の力がますます強く現されることを願う。そして第二にキリストが住んでくださるように。キリストがあなたがたの心の中でくつろいでくれるように、と祈る。表面的ではない深い関係性を祈っている。第三に、愛を知ることができるように(18-19)。人知をはるかに越えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ることを祈る。最後に満たされるように。「知る」ことと「満たされる」ことは違う。それは、理解したことを自分のものにすることである。
最後の祝祷には、パウロの神の力に対する確信がある。神がイエスキリストを死人の中から活かしたこと、復活させる力を持つこと、それは、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施す力となる。そうであればこそ、私たちは様々なことに豊かな望みを持つことができる。