エペソ人への手紙6章

夫婦の関係に続いて親子の関係が取り上げられる。パウロは、子どもたちよ、と直接呼びかけて従順を勧めている(1節)。明らかに当時は、子どもたちが親たちと一緒に礼拝に参加していたのだろう。つまりこの命令は、親が受け止めて子どもに言い聞かせるものではなく、子どもが自分に対する命令として受け止めるべきことばなのである。第五戒「あなたの父と母を敬え」の戒めは従順の意味を広げている(2節)。「敬う」には、尊敬を示す、愛する、配慮する、自分の生き方によって親に光栄をもたらす、などの意味がある。そのように親を敬う子どもは、地上で長生きをし、常に心の平安を味わうことを学ぶ。

続いて、パウロは父たちに命じる。子どもにはしつけと訓練が必要である。しかし父親は、子どもを怒らせるようではいけない。怒らせることは、気落ちさせることであり、励ますことと反対である。父親の言うことに矛盾がある時、攻めてばかりで決して誉めない時、しつけが公平でない時、えこひいきをする時、約束をしながら守らない時、そんな時にはいつでも子どもは落胆している。つまり子どもの心の状態がどうであるかをよく理解しながら、育てることが大切だ、ということだ。しかしただ親子が仲睦まじければいいということではない、義しい人ヨブの父親としての関心は、常に子どもたちの心の状態にあったが、彼は、子どもたちが神と正しい関係にあるかどうかを気遣った。「訓練」はヘブル12章では「懲らしめる」とも訳されている。怒りの感情からではなく愛情深く繰り返し、「主の教育と訓戒によって」つまり神のことばである聖書を用いて、その考え方が身につくように訓練していくことだ。一度では伝わらないことが多いからだ。神の子どもとして育っていくように、しっかり向かい合っていく、それが父親の使命である。

5節、奴隷についての勧めは、今日では、社会人、労働者に対する勧めと考えてよい。ここでも従順が促される。上司が見ている時のみしっかり働くのではなく、見ていない時も、いつでも上司を立ててくださっている神に仕えるように従い働くのである。良い仕事をすることは、神のみこころであるし、それ自体神に報いられることである。一方主人には、部下の福祉に最善を尽くすように勧められる。もし上司が部下に最高の仕事を期待するならば、当然のことだ。イエスご自身も、上に立つためにまず仕えることを教えられた。権威のもとにあることを知らずにして、権威を持つことはできない。仕えることによって、仕えられるのである。

6章後半は、先の章を受けて自分を変えること、家庭や職場を整えること、そのような戦いに勝利していくべきことが語られる。大事なのは、神が備えてくださる武具と武器で武装して戦うのである。どんな武器か。真理の帯は、真理そのものを身に着けること、つまり神の子として聖書的な考え方をしっかり身に着け、神の視点から自分を見、世界を見ていく、そういう物事の見方がしっかり出来ていることである。正義の胸当ては、キリストの義を身に着けることである。自分の不完全な義ではない。人間の義は敵の精査には耐えられないからである。平和の福音の備えは、神や人との間に平和が築かれていること。神が味方してくださるのでなければ、私たちに勝ち目はない。信仰の盾は、守りの武具であるが、皆で固く守るという視点が重要だ。つまり血肉に対する戦いではない暗闇の支配に対する戦いは、個人的な戦いで何とかなるというものではない。主にある兄弟姉妹皆で助け合い防御し、戦うのである。救いのかぶとは、自己流ではなくて、本当に、神を主とし、神に支配される信仰を持つことである。みことばの剣は、聖書のことばそのものである。こういう武装をしっかりとした上で、祈りによって士気を高めていくことだ。つまりキリストの名によって御霊によって祈ることである。そして、最後に私たちが勝利を得るために、互いに愛をもって励まし合うこととしよう(22節)。

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