すでに、パウロは自分の語る福音が、全く人間的な教育とは無関係であること、つまり復活の主から直接啓示を受けた者であることを語ってきた。2章に入り、パウロは、その人間の手を介さない天来の福音が、エルサレム教会から認証されたものであることを語る。
1節「それから14年たって」とある。この14年を、使徒の働きのいつの出来事に位置付けるのか、議論がある。使徒の働きに記録される、パウロのエルサレム訪問は三回ある。①使徒9:26-30(ペテロを訪問)、②使徒11:29-30(救援物資の運搬)、③使徒15章(エルサレム会議への出席)。そこで、この14年を②の救援物資を運んだ訪問、つまり回心から14年後と考えるとどうなるか。パウロがこの手紙を書き送っている宛先は、南ガラテヤ地方、つまりパウロが設立したイコニウム、ルステラ、デルベ、ピシデアのアンテオケなどになり、執筆年代は、第二回伝道旅行の途中で、AD50、51年頃、場所はコリント滞在中となる。しかし、この14年を③のエルサレム会議への出席と見ることも可能で、そうなると宛先は、北ガラテヤ地方になり、執筆年代は、第三回伝道旅行でガラテヤの諸教会を訪問した後、AD55、56年頃、執筆場所は、エペソに滞在中の時となる。つまり14年をいつにするかで、手紙の宛先が変わるのであり、今のところ前者の南ガラテヤ説が多数説となっている。
いずれの説を採るにせよ、その時、パウロの福音に反対する動きがあった。ギリシア人の同労者テトスが、ユダヤ主義的な人々から割礼を強いられそうになったという(3節)。福音を信じるだけでは足りない、割礼を受けなければキリスト者として完全ではない、という判断だ。しかし、パウロは、そのような結果にはならないように注意した(6節)。というのも、パウロの語る福音は、既に述べたように天来の福音であり、その福音に割礼は含まれていなかったからである(9節)。
大事なのは、こうした福音理解は、結局実際的な行動に反映されるということだ。パウロの福音の割礼を付け足した者たちは、結局排他的な行動へと出てしまった。それは実に、11節、初代教会のリーダーであるペテロにも影響を与えた。ペテロの第二の失態というべきか、ペテロは当初、異邦人クリスチャンたちと親しくしていたが、福音に付け足しをする者たちが来ると、その交わりから身を引いてしまったのである。彼には、風向きが変わると、なすべき正しいことがわかっていても、多勢に無勢となびいてしまう弱さがあったのかもしれない。パウロは手厳しい。ペテロを「福音の真理についてまっすぐに歩んでいない」(14節)と糾弾する。ペテロ、あなたはキリストにあって律法から自由にされると主張しながら、どうして彼らに割礼のくびきを負わせるのか、福音を信じていると言いながら、あなたの行動はそれを否定している!というわけだ。
パウロはまとめに入る。16節、17節、「義と認められる」、これは、キリスト教の中心である。一種の法律用語であって、法廷で無罪を宣言することを意味する。もちろん、聖書は、すべての人を罪人であると断罪している(ローマ3:10)。しかし同時に聖書は、キリストの十字架に免じて、神が罪人を無罪とみなし扱うことを語っている。
当時、ユダヤ人たちは、神に正しいと認められるためには、それなりの行い、例えば十戒をきっちり守ることをしなくてはだめだ、と考えていた。しかし、パウロは、それは神に義と認められることではなく、神に自分を義と認めさせることに等しい、と考えた。これは今日でいえば、献金、奉仕、証に頑張って、自分の努力で神の祝福に与ろうとするようなものだろう。しかし、神はそういうことで私たちを義と認めてくださるわけではない。私たちの業よりもキリストの十字架の業が重要なのであり、それがすべてである。
しかし17節、ユダヤ人は、キリストが全部やってくださった、としたら、その人は責任を問われなくてすむ、虫がよすぎるではないか、と批判した。パウロは、そんなことはありえない。キリストによって正しい者と認められながら、なおも、罪の人生を歩めるだろうか、と。実際、わたしはキリスト共に死んだのだ。キリストが裁かれた時、裁かれたのが私の罪であったとしたならば、私もキリスト共に十字架にかけられて死んでいるのだ(20節)。でも、私は生きている。となればそれは古い私ではない。古い人生も生き方も過ぎ去って、今あるのは新しい人生だ、私のうちに復活のキリストが生きておられるのだ。というわけである。
もし、自分の努力によって、神が私たちを正しいと認め、祝福してくださる、という考え方がキリスト教において成り立つのなら、キリストの十字架は無意味ではないか。そうではないのだ。この福音にしっかり立たせていただくこととしよう。