コリント人への手紙第一1章

他の書簡と同じように、パウロは、挨拶ではじめている。特に注意したい点は、パウロが教会について語っているところだろう。パウロのことばに、教会がどういうものであるかを理解させられるところである。つまり、どの地域にあっても、また大小を問わず、教派を問わず、教会は神の教会である。そして教会は、三つの特徴を持つ。
教会は、「神」が召集されたものである。パウロが人集めをしてできたわけではない。また、神に召しだされた、神に属する者の集まりである。だからそれが、神に属する者として、世と区別されるのは当然のことだ。イエスは、宮きよめを行った際に、「私の家は祈りの家と言われている。」と語った。教会は、あたたかくヒューマニティに溢れている場、という印象以上に大切なのは、祈りの霊で満ちていることである。神を求め、神の御力を待ち望む雰囲気に満ちているかどうかである。最後に、教会は、「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた」人たちの集まりである。「聖なる者とされた」は完了形で、聖別された結果がいまも続いている状態を指している。つまりそこは、もうコリントの社会風潮から区別された人々、もはや物質主義や名誉や金を求めて生きる、世俗の流れとは違う生き方をしている人が集まっている場なのである。教会は、建物の問題ではなく、人である。人であれば、そこに集う人のよしあしが教会のよしあしを左右する。教会の現在も、未来も、私たちの自覚と、知恵と行動に委ねられているのである。
さて、パウロは、ここでコリントの人々に感謝を表明しているが、実際には感謝しえない状況もあった。しかし、それでもパウロは、コリントの教会の人々に神が過去から未来に至る恵みを与えて下さったこと、そして、彼らが賜物に恵まれていた事実に感謝している。
続いてパウロは、単刀直入にコリント教会に起こっていた「分裂・分派」の問題に触れている。教会は、パウロ派(自由派)、アポロ派(知性派)、ペテロ派(律法主義派)、そして誰にも属さないキリスト派に四分していた。そんな状況に対して、パウロは、「同じ心、同じ判断を完全に保つように」と勧める。その一致を取り戻すためのポイントをいくつかあげている。
一つは、誰が私たちのために十字架にかかってくださったのかを覚えることである。一体、誰の名によってバプテスマを受けたのかをはっきりせねばならない。私たちにはどうしてもファンクラブメンタリティがある。どうしても目に見える人間のリーダーに従おうとする心がある。しかし、従うべきは目に見えない主ご自身である。二つ目に、私たちはどのように神のもとに召されたかを意識すべきである。私たちは十字架の弱さ、愚かさのもとに遜り、主の救いを受けた。つまり、私たちは自分たちの誇りを捨てた者である。確かに、人間が自分を誇り、頭をもたげ、上から目線で人を見ている限り、争いごとはなくならない。自分が罪人であることを深く自覚しない限り、人を裁く目つきが和らぐことはないだろう。人間は、元々裸である。しかし、成長の過程で、学歴、仕事、地位、伴侶、財産などを身に着け、そんな着膨れした自分を自分と思い、他人も自分もそれらの付属物を通して見るようになっている。しかし、本当のところ自分は裸なのだ、弱い罪人なのだ、という現実を受け入れ、お互いに理解し、受け入れ、支えあう気持ちを大事にすべきなのである。そこに豊かな人間関係も生まれるのである。

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