コリント人への手紙第一5章

これまでパウロは、教会内の分裂の問題を扱ってきた。ここからは、彼が耳にした教会内の重大事態と実際的な諸問題について、この5章では特に近親姦の問題とそれをどのように扱うべきかを語っていく。「淫らな行い」は、ギリシア語では「ポルネイア」を意味する。これは、ポルノの語源になったことばで、当時の世界では、「売春婦を買う」こと、また「近親姦」といった幅の広い性的逸脱を意味して使われた。父の妻、ギリシア語では「ギュネイ」、つまり妻、婦人、女と意味の幅があり、具体的に義母なのか、離別された未亡人の女性なのか、よくわからない。問題は、社会的に認められない性的な関係があった、ということなのだろう。「異邦人の間にもないほどの」というのは、その程度のひどさを強調している。問題は、そういう状態が続いているのみならず、コリントの教会の人たちが、教師をめぐる分派問題にうつつを抜かして高ぶって、本当に問題にすべき事を問題にしていないことであった(2節)。パウロは、問題の本筋を間違えて、違ったところで混乱を深めている教会のあり方を問題にしている。
パウロはそのような者をすでにさばいた、という。「サタンに引き渡す」は、具体的には教会会規を執行し、その男を、神の御国である教会から、彼が属するサタンの世界へと追放せよ、ということだ。パウロは手厳しいが、それは報復的措置ではない、教育的配慮である。パウロは、問題の人が、神の愛の中にあることを否定しない。キリストの十字架は完全な罪の赦しを提供するからだ。赦されない者はいないし、やり直しのきかない失敗もない。だから、パウロは、会規処分を受けた者たちが、やがて主の日に、主の民の中に混じっていて共に主の恵みと救いを受けることを思い描いている(5節)。彼がサタンの世界へ追い出され、その肉欲のためにボロボロの人生を歩もうとも、彼の霊が回復されることを願っているのである。
だからパウロは、教会会規を執行し、そうした者を徹底的に排除し、教会の聖さを保つように命じている(6-8節)。6節、「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませる」は、当時の台所ではよく語られた格言であった。ここには、過越しの祭がイメージされている。過越しの祭では、イスラエルの民が、指導者モーセに率いられて、奴隷とされた地エジプトから脱出した際に行われた行為、つまりパン種を入れないパンを作って食べる行為を思い起こす。ユダヤの暦では、アビブの月(太陽暦では3-4月)の10日に祭の準備が始まり、14日の夕暮れに小羊が屠られた。その肉は種を入れないパン、苦菜と共に、儀式にのっとって食され、翌朝まで残されることはなかった。この祭りの準備のため、パンを作る時には、家中のパン種を一掃することを習慣としていた。それはパン種が少しでもあれば、種無しパンを作ることはできないからである。パウロはそこで言う。過越しの小羊であるキリストは既に屠られた。過ぎ越しの祭りは始まっている。しかし、そこで使われる種無しパンを食べようにも、種無しパンを作るためのパン種を取り除く準備すらできていない。祭りをするどころではないではないか、というわけである。
そこで、8節「ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種無しパンで祭りをしようではありませんか。」となる。祭をするんだったら、きっきりやろうではないか、早くパンを作る準備をして、パン種を入れないパンを作ろうではないか、というわけだ。確かにいいかげんな礼拝を何百回、何千回重ねても意味はない。教会は神の臨在したもうところ、神を認め、神を礼拝する場であるとするならば、しっかりとその準備をするべきである、ということだろう。
さて9節、パウロが先に書いた手紙は誤解されたようである。この手紙の前にももう一通既に手紙が書かれていたようであるが、現聖書にそれは収録されていない。パウロはその中で、淫らな行いをする者たちと付き合わないように、と書いたようである。しかし、それは世の罪深い人々との交際を禁じるものではなかった、と弁明している。自分の命令は教会の外ではなく、中の罪深い人々を処罰することである、と(11節)。聖と俗、教会とこの世を区別することで、教会は社会と断絶すべき、だとまで言っているわけではない。むしろ、しっかりとした態度をとるべきは、教会の外ではなく中である。「兄弟と呼ばれる者で」罪深い者がいるなら、である。言いにくいこと、取りにくい態度はあるものだ。しかし、身内の中で起こっている間違には、やはり教育的な配慮を示す愛を持ちたいものだ。打ちのめし、追い出し、見捨てる裁きではなく、主の日に霊が、共に救われるための配慮ある裁きは、主の愛をもってこそなせる業である。

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