コリント人への手紙第一6章

5章では、教会員の中に、ひどい性的な不道徳が行われているのに、それを黙認し、とるべき処置(戒規)もせずにいる問題が指摘されていた。6章では、教会の問題を世俗の裁判に訴える問題が取り上げられている。しかし、基本的にこれらはつながった議論である、と理解すべきなのだろう。

1節、「正しくない人たち」は、不正な裁判官ではなくて、6節の「信者でない人たち」を意味する。つまり、キリストを通して神との正しい関係を持とうとしない、信仰を持たない裁判官のことである。2節「ごく小さな事件」はギリシア語で、ピオテーィコス、つまり「法廷に持ち出すべきではなく、家で解決すべき日常生活上の喧嘩」を意味する。ユダヤ人にとって、非ユダヤ的な法廷に訴えて物事を解決することは、神の律法を冒涜するに等しいことであった。彼らは、神の律法に照らして、家族的に、物事を慮りながら解決したのである。しかし、コリントの人たちは違っていた。神の律法を持たない彼らは、訴訟による解決を傾向としたのである。それは今日の日本と同様である。初めは、調停にあたる、個人的な仲裁人を依頼することで解決しようとした。それでも問題が片付かなければ、いわゆる家庭裁判に相当するものがあり、それは、問題次第では、大きな裁判沙汰になることがあった。おそらく、5章にあげられたような性的な不道徳の問題についても、彼らは、本来ならば教会で戒規を執行して解決すべきはずであったのだが、調停や裁判に訴えることをしたのだろう。パウロは「それは、待て」という。なぜなら、聖徒は世界を裁くようになる、偉大な務めを負うようになるのだ。どうして小さな家のもめごとのような事柄を解決する力がないのか、というわけである。

そしてそもそも論になるのであるが、十字架愛に生きている者が、訴訟を起こすこと自体が、矛盾している、と。口で証していることを否定しているのだ、という。もし、本当に神の愛に生きているのなら、7節「不正な行いを甘んじて受ける」「だまし取られるままでいる」度量を持てないはずがない。むしろ互いに、相争うことが、結局キリスト者として失格のバツ印をつけることになっている。ペテロも「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」とキリストの模範に倣うことを教えた(1ペテロ2:19-23)。もちろん、不正な行いを甘んじて受けることは、非常に勇気のいること、難しいことがあるだろう。しかし、あなたがたは知らないのか。いや、信じていないのか、と理解すべきなのだろう(9節)。正しくない者は、神の国を相続できない、と。信仰に生きるというのは、まさにこの見通しと確信の中に生きることである。

信仰を持つことは、聖書を学ぶ、礼拝を守る、奉仕をする、伝道すること以上のものだ。キリスト者は、はるか先の終末の時を臨み見ながら生きている。つまりその御国に入る目的を持って、自分を相応しい者として整える人生を生きている。11節、「洗われ」は洗礼を意味するとも言われるが、「罪の洗い流し」という隠喩的表現と理解すべきなのだろう。日本語では受動態であるが、ギリシア語では中動態と見なされる。つまり、あなたがたは「自分を洗った」のだと言っている。いやいやながら、無理やり洗われたのでも、洗うはめになって洗ったのでもなく、自らの意思で自分を洗ったのだ、というのである。しかも「洗われ」「聖なる者とされ」「義と認められる」すべて動詞は不定過去形である。つまり決定的に過去に済んでしまった行為が意味されている。もう後戻りはできない、ということだ。ならば、腹を決めて、自ら進んで神の御国に相応しい歩みをすべきではないか、という。

そこでパウロは、懇ろに語りかける。「すべてが益になるわけではない」「どんなことにも支配されない」(12節)。私たちは基本的に何事からも自由であるし、何よりも新しい主にある人生を生きているのだから、益になること、神の栄光を現すことにこそ心を注ごうではないか、と。キリスト者は自由である。あらゆる迷信、固定観念、思想からも自由であり、さらには「罪」からも自由である。というのも、私たちにはキリストの復活の力が、注がれ働くからだ(14節)。

私たちは、これまでどおり、自分のからだを、不品行の器として用いることもできるが、むしろ、その復活の力によって、御国が近づいていることを覚えて、手、足、口、耳、目、すべての器官を主の栄光のために用いることもできるのだ。自由なのだ!かつて、ソクラテスは「人は食べ、飲むために、生きるのではない、生きるために、食しまた飲むのである」と言ったが、パウロは、さらに進んで言う。「ただ生きるためではない、食べるにも、飲むにも、何をするにしても、ただ神の栄光を現しなさい」(20節)と。

ここで5章の問題に戻ってきている。人間にとって身体も大事なものなのだ。特に信仰者にとって肉体は、神のから受けた聖霊の宮であって、聖別されたものである。人々は、聖書を読むことはしないが、聖書を読み、その信仰に生きるキリスト者の生き様をよくよく見ているものであろう。実にキリスト者の肉体は、まさに神の栄光を証するショーウィンドーなのである。神の栄光を現すとは、人々の間で、私たちの救い主である神が認められ、神の名がたたえられるように生きることである。神が確かに生きておられること、これを明らかにする人生が、キリスト者の進むべき道なのである。

 

 

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