パウロは、先の3章で新しい契約に仕える務めの素晴らしさを語った。それは、律法に心を責められ苦しみ、悲しむ者に対して、キリストにある新しいいのちと義を伝える、光栄な働きである。本来パウロは、そのような働きには全くもってふさわしくない者であったが、ただ神のあわれみによってその働きに任じられたのである。自分からしゃしゃり出たわけではなく召されたのである。となれば、どんなに困難があり、苦難を味わおうと落胆する必要もない。むしろ、求められるのは誠実さである。神が、全てをお膳立てし、全てを導いてくださる働きに召してくださったのだ、という自覚があるならば、そこであれこれ器用に立ち回ることを考えたりする必要もないし、人に媚びへつらって、言いたいことも言えないような思いになる必要もないし、ただ率直に、神の御前で働きを進めるとよいのである。
ただ、そのように、良心的に宣教者として歩みつつも、救いに応答する人は、少ないことがある。耳を傾けてくれない人がいたりするものだ。その場合には、聞く者の側に原因がある、と考えればよい。宣教に問題があるのではなく、この世の神に思いをくらまされて、福音を拒む者の頑なな心が問題なのだ。
大切なのは、私たちはキリストにあわれみをもって召され、キリストを語っていることだ(5節)。私たちはキリストのしもべに過ぎない。その働きは、キリストに主導権があるのであって、キリストがある人に、神の栄光を知る知識を輝かせ、ある人には、輝かせないようにする働きに召されているのである。私たちはキリストの運び屋である、というべきだろう。
私たちは、粗末な運送屋に過ぎない。土の器のようなトラックの中身には、キリストという宝を積んでいる。そしてこのキリストという宝を、荷下ろしして、紹介すれば、神のみこころによって救われるべき人が救われていく。私たちの力によるものではない。私たちの福音宣教で実を結ぶとしたら、それは、私たちの力ではなく、神から出たものだということが明らかになるためである。
だから、たとえ四方八方から苦しめられ自分が弱められようとも、死に至らせられようとも、神のいのちに変わりはない。むしろ、私たちの弱さや死を通して、ますます神のいのちは輝き豊かにあらわされるのだ(11節)。
確かに、アブラハムの例もそうであった。彼は神のあわれみを受けて、行くところを知らずにして出ていった。彼に求められたのは、神の召しにただ従うことであった。彼は年老い、肉体はますます衰えていった。そして彼が思うような、神の祝福はなかなか起こらないように見えた。しかし、彼の生殖的能力が全くゼロとなった、つまり死せる体になった時に、イサクが与えられた。重要な点ではないか。私たちは自分が弱められれば、もう自分の働きはダメである、と考えやすい。もっと力があれば、もっと能力があれば、といつでも自分の何かでこの働きが持っていると考えやすい。しかし、力がなくても、能力がなくてもよい。神が召してくださった働きについている以上、神がそれに責任を負ってくださる。だから、弱められる時にこそ神の素晴らしさがいよいよ現れるのである。だから背伸びせず、ありのままに、純粋に、自分に委ねられた福音を伝える努力をすればよいことになる。そして自分が死に直面するような危険にあったとしても、それは、イエスを証する最高の機会である、と考えるべきだ。12節は、ピリピ人の手紙1:21「私にとっては生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」を思い出すことばである。実際、このコリント人への手紙第二が書かれたのは、エペソでの投獄や、獣と戦った経験(1コリント15:32)もまだ記憶に新しかった頃である。パウロは、迫害の困難の中にあって、どんなに死に瀕しようが、それが、いよいよ、キリストの復活のいのちの可能性を増すばかりであることを語る。
だからこう考えよう、すべては、あなたがたのために起こっていることだ。そして恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ち溢れ、神の栄光が現れるようになるためだ(15節)。
こうしてコリント人への手紙を読む時に、いかにパウロが、自分を神のしもべとして、徹底して位置付けていたかを思わされるところである。私たちが思い悩むのは、自分が何物かと考えるところにある。私たちはしもべに過ぎない。大いなる特権に召しだされたしもべである。大事なことは、見えるもの、この世のもの、終わるものではなく、見えないもの、天に属するもの、永遠のものに目を注ぐことである。神が召してくださり、神がやがてその働きに報いてくださる時が来る。その時にこそ目を注いで歩むことだ。別の言い方をすれば終末的なビジョンをしっかり持って歩むということだろう。神が見えにくい時代にあって、はっきりと神の栄光を覚え、神のしもべとして歩む、その戦列にしっかりと加わることなのだ。