「目を覚まして・・・祈りなさい」とある。しっかりめざめて、心の目を覚ましてということだろう。ぼんやりと、自分の関心と欲望の中に埋没し、眠った心で祈っていてはいけない。上にあるものを求める歩みというのは、まさに神の力によってなされることだから、私たちの努力ではないのだから、祈りが重要なのである。そして、宣教のために祈ろう。キリストの奥義が宣教者を通してはっきりと語られるように(3節)。また、それをふさわしく語ることができるように(4節)。パウロが奥義といった場合には、二重の意味がある。一つは、キリストにある十字架の救い。二つ目は、この救いがユダヤ人、異邦人の区別なく、すべての人に与えられることだ。人間が罪を悔い改め、真に新しい人生に生きる、これなくして、全人類が一つにされることもありえない。この奥義がはっきり語られるように、というわけである。また、「感謝をもって」ということは、神の約束に堅く立つ、神に望みを抱いて、ということである。自分が望みを抱きえぬ失望、落胆するような環境の中でこそ、あえて大きな救いのみ業をなす神を覚えて、感謝を先取りして祈ることである。
キリスト者は外部の人たちに、知恵をもって振る舞わなければならない。いつ自分の信仰を語るべきかをわきまえるのである。口やかましく語ったりするのではなく、生き方によってキリストを語るのである。また、キリストのために働き、人々に仕えるためにあらゆる機会を生かしていく気持ちが大切である。キリストの影響を与える好機を逃さない。機会に後ろ髪はないという。つまり通り過ぎてからでは、捕まえられない。いつも機会をしっかり生かす心構えが必要である。
最後に、パウロは、自分の仲間からの挨拶を述べる(7-11節)。
テキコは、ローマの出身。エルサレムにある貧しいキリスト者のために贈り物を届けに行き(使徒20:4)エペソ人への手紙を運んだ(エペソ6:21)。オネシモは、逃亡奴隷であるが、忠実な愛する兄弟と呼ばれた。アリスタルコは、テサロニケ出身のマケドニヤ人(使徒20:4)。アルテミスの神殿で暴動が起こった時に、暴徒に捕えられ(使徒19:29)、囚人パウロと共にローマに同行した(使徒27:2)。パウロの同囚として、ローマにおり、パウロが困った問題を抱えている時には、いつもパウロと一緒にいた。パウロにとってはよき同志である。バルナバのいとこマルコは、ペテロの通訳者である。ペテロはわたしの子と呼んでいる(1ペテロ5:13)パウロは、初めマルコを評価しなかった(使徒13:13)が、その評価を変えている(ピレモン24、2テモテ4:11)。エパフラスは、コロサイ教会の牧師(コロサイ1:7)。ヒエラポリス、ラオデキア、コロサイの監督者であった。ルカは、最後までパウロと共にいた(2テモテ4:11)。デマスは、パウロの同労者(ピレモンの手紙24)であったが、ただのデマス(コロサイ4:14)からパウロを捨て去る人へと変節してしまった(2テモテ4:10)。ヌンパとその家にある教会。当時は、教会堂はなく、家庭が教会であった。
パウロは挨拶を終え、ラオデキアからコロサイに回ってくる手紙があるので、それを読んでほしいと語る(16節)。今は失われており、聖書には収録されていない。パウロは、アルキポに対し激励する。何の務めかはわからない。しかし、主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。これは、私たちに対する激励としても受け止められる。大切なのは、いつも主にある務めを抱いていることを心に覚えることである。ぼーっと人生を過ごすようではいけない。目を覚まし、自分が何をすべきかをはっきりと理解して、主の目的に沿って歩ませていただこう。