9章 第三の幻(ダニエルよりメシヤまでの時である70週についての預言)
おはようございます。神と心を交わしながら祈るダニエルの姿が印象的です。落ち着いて、静かに、大切なお方と祈りの時を過ごす、大事にしたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ダニエルの祈り
この時ダニエルはエレミヤ書を読んでいました。そして、神に定められたバビロン捕囚の期間、70年が満ちた事を悟ったと言います(2節)。つまり、ダニエルは、神が約束通りにイスラエルの民を祖国に戻してくださることを知り、祈りをささげるのですが、その祈りに何か心を打たれる思いがします。ダニエルは、実に自然に、神の御前に自分たちの罪を告白し、赦しを請うています。単に彼は、神に約束通りにイスラエルの民を祖国に戻してくださいと祈っているわけではありません。むしろ、神と心を交わし合っているのです。文字に書き起こされた以上の霊的なやり取りがあった、と言うべきでしょうか。ダニエルは、契約を守り(4節)、義しく(7節)、あわれみと赦しに富み(9節)、全能である(15節)神の御前にあります。そして他方、神に反逆し、神が遣わした預言者に耳を傾けず(5節)、その結果面目丸つぶれの現状に陥り(8節)、最悪の惨事を経験しながら、今なお神を求めずにいる愚鈍な自分たちの状況(13節)を感じています。もはやこの状況において神がイスラエルを回復されるとしたら、それは、自分たちにその価値があるからなのではなく、全く神のあわれみと誠実さの故である(18節)、厚かましくも、受けるに値しないその恵みが与えられますように、と神の御前に心を伏しているのです。まさに「神に特別に愛されている者(23節)」と言われる理由がそこにあるのでしょう。
2.荒らす忌むべき者の預言
24節以降の70週の預言については、大きく二つの解釈があります。一つは、BC167年アンティオコス・エピファネスが神殿を汚し、ゼウスの神の像を建てた時のこと、ユダ・マッカバイオスによって神殿が奪還され、清められて、再びささげられた過去の出来事を指す、と解釈するものです。ダニエルの預言的能力を認めない批評的な立場では、こうした歴史的事実に基づいて、BC2世紀頃、ダニエル書は回想的に書かれた、とします。しかし、保守的な立場では、この箇所を未来的、終末的に解釈してきました。というのも、キリストがこの箇所を引用して、終末について解き明かしているからです(マタイ24:15)。しかしそのキリストの引用の意図についてまた二つの解釈があります。キリストにある罪の赦しに重点を置くものとキリストの終末的な出来事に重点を置くものです。確かに、神に対する背きの罪が赦されて、宥めが行われるのは十字架の出来事を語っているようですし、聖所が聖別されて神にささげられるのは、もっと未来のこと、新しいエルサレムにおける新しい至聖所のことを言っているようです(黙示録21章)。しかし今の段階では、よくわからない、と言うのが本当です。ただ、エレミヤの預言も、理解される「時」がありました。この預言も、いずれ理解される「時」が来るものと考えるべきです。天の秘密を明らかにする神を恐れ、今日も、み言葉を巡らし、神と心を交わす祈りの時を持ちたいものです。