先にも述べたように、パウロは、ユダヤ人の妨害によって、設立後まだ自立もおぼつかないテサロニケの教会を、後ろ髪を引かれる思いで後にせざるを得なかった。そしてピリピの教会の今後を心配する思いに耐えきれなくなった、という。パウロは、単なる宣教者ではなく、牧会者であったのだ。
そこでパウロは、自分の愛弟子であり教える力のあるテモテを代わりに派遣した(1節)。テモテは、コリントの教会(1コリント16:10-11)、ピリピの教会(ピリピ2:19-23)の問題解決にも派遣されている。では、彼は何をテサロニケの教会の人たちに教えようとしたのか。
それは、テサロニケの人たちがキリストにある苦難を当たり前に受け止められるようになることであった(3節)。クリスチャンにとって、迫害や苦難は、意外なことでも驚くようなことでもなく、それは起こりうることであり、定められたことである(ピリピ1:29、1ペテロ4:12)。それはクリスチャンとして生きていることを証しするようなものだ。だから、困難にあっても、挫けず、道を踏み外さないように力づけることがテモテの役割であった。しかし、テモテの報告によれば、それは、パウロの杞憂に過ぎなかった。テサロニケの教会は、苦難に動揺するどころか、信仰に堅く立ち、むしろ、神に守られて、その信仰に成長していたのである。また彼らはパウロを忘れずにいて、パウロと交わりを持ちたいと願っていた(6節)。
実にそこに、「成長させてくださるのは神である」という教会成長の大原則を見るのであるし、パウロが最も感謝する根拠がある。神がパウロの心配を超えて、働いてくださり、テサロニケの教会の定着を助けてくださっていたのである。そこでパウロは、感謝をもって、テサロニケの人々への信仰的な励ましとして、手紙(本書)を書き送った。牧会は、実に丁寧な働きである。
手紙の中でパウロは、迫害を受けながらも信仰に堅く立つテサロニケの人たちの姿に、一方ならずとも慰められている自分の気持ちを率直に語っている。確かに彼らは、キリスト教信仰を持つが故に、家から勘当されたり、仕事を辞めさせられたり、生活していくことが難しい状況の中に置かれていた。けれどもそういう中で、信仰に堅く立っている。神に支えられている彼らの姿を思うなら、やはり感謝をせずにはいられない。神の臨在のリアリティを感じて、喜ばずにはいらわれないのである。そこにどんな神の配慮があったのか、どんな守りがあったのか、分かち合いたい、パウロが彼らに会いたいと思うのも無理はない。しかし同時に、パウロは信仰の不足を補いたいという。テサロニケの信仰者たちの霊的成長に大いに感動していたにもかかわらず、やはり信仰にこれでよし、ということはないのであろう、パウロは、成長させてくださるのは神である、と神への信頼をいよいよ深めて、夜昼と祈るのである。
その祈りは三つである(11-13節)。まずは、パウロが、直接会えるであろうことを祈っている(11節)。続いて彼らが愛に満ち溢れるように祈っている(12節)。信仰が強くなることは、愛においても強くされることである。人は、心を尽くして神を愛し、さらに自分の隣人を自分自身のように愛することをキリストに学ばなくてはならない。パウロは、テサロニケの教会が真に「神の愛に生きる教会」となるように祈っているのである。そして最後に、パウロは、彼らが聖く傷のない者となることを祈った(13節)。かつてパウロは律法学者として、自らの聖さを誇った時代がある。しかし、そのような人間の努力ではなく、神が与え、完成させてくださる聖さである。信仰を人間の営みとせず、神によってすべて整えられ、すべて満たされる歩みとしたいものである。