パウロは、自分のための祈りを要請している。二つの課題がある。一つは、福音が早く広まること。「早く広まる」は、ギリシア語で「トゥレコー」競技場で走ることを意味する。できるだけ早くである。二つ目に自分と同労者の身の安全が守られるように、である(2節)。宣教者の守りのために祈ることが、福音の進展のために祈ることにもなる。
続けて3節、パウロは、主の真実さを強調し、テサロニケの信徒を励ましている。「私たちが命じること」(4節)はおそらく6節以降の具体的な問題に対応することなのだろう。だから、主の忍耐が、彼らに増し加えられて、その取り組みが助けられるように、と祈るのである(5節)。
そこで6節。パウロは、締りのない歩み方をしている者との交際から離れるように命じる。締りのない者というのは、怠惰な生活をすることによってまじめに働く人々を利用している人々のことである。具体的に、キリストの再臨が間近と主張して日々の仕事を放棄している人々がいた。すでにパウロは、第一の手紙でこういう人たちを戒めている(4:9-12)。しかし、彼らはパウロの警告に聞き従わなかった。そこで彼はもう一度、そのような生活態度に戒めを与えている。宗教改革者のマルチン・ルターは、「今日再臨が起こるとしても、私はりんごの木を植えに行こう」と言ったとされる。今の生活がそのまま天の御国の生活につながるように生きていくのが、クリスチャンのあり方であって、人のつまずきとなるような生き方ではいけない。
パウロは、そのような人々に忠告を発すると同時に、「しかしあながたがは」と教会全体に対して勧める。しまりのない歩みではなく、たゆまず良い働きをしなさい、と今の歩みのペースを守り、促進するように勧めている。「良い働き」と訳されたギリシア語は、慈善をするというよりも、公平なふるまいをする、高貴なことをする、事を意味する。つまり、いつも、最高の目的、神の栄光にかなう歩みを識別し、そこに向かって進むことを言う。
とても強情な者がいて、指示に従おうとしない人がいるなら14節、「交際しないようにしなさい」という。文字通りには「一緒にならないように」。つまり自分自身をその人と混同してはいけない、ということだ。間違いに対して甘い態度は取らない、ということだろう。けれども、15節「敵とはみなさず、兄弟として戒め」るのである。異分子に対しては、身内として接することができず、敵のように扱ってしまうのが私たちの常である。しかしそれでは、人を教育することはできない。考えられているのは、建てあげることであり、立ち直らせることである。レッテルを貼って、村八分にすることではない。罪を示すのは、聖霊であり、聖霊の働きが十分になされるためには、思いやりのある心、十字架愛の心で接し続ける人がいればこそである。
そこで、パウロは、再び、主の業へと読者の心を向けて、自らの書を閉じようとしている。これまで行うように語ってきたことは、人間の力では達成することはできない。私たちを主の御心にかなう者とするのは、聖霊である(1テサロニケ5:23)。また、教会が平和に満たされるのは、平和の主の臨在による外はない。ただ主があなた方と共にいるように、と祈るゆえんである。
最後にパウロは、「自分の手であいさつを書きます」と、手紙の真作性に注意を喚起している。おそらく、2章2節の言葉を受けているのだろう。この手紙の内容は、パウロ自身のものなのだ、と主張する必要性があったのだ。パウロは、愛をもって、異分子と思われる人々を含めて、教会全体に別れを告げている。建てあげようとするパウロの愛の精神に倣うこととしよう。