テトスへの手紙1章

初めにパウロは、明確な自己認識を明らかにしている。神のしもべとして人を信仰に進ませ、真理の知識を得させるために、あるという(1節)。パウロが神に用いられたゆえんである。大事なのは二つのことである。一つは、パウロが自分を神のしもべと呼んだことである。ギリシャ語ではドウロス。これは旧約聖書時代、モーセやヨシュアが好んで用いたことばである。彼らは自分たちが人の上に立つ指導者であるとしても、それは、神の愛と正義のみこころに従う者であり、神の意志に従う者である、と考えた。しばしば神に従うことは、往々にして自分を失うというか、自分の意志を拘束されて、得体のしれない何者かに支配されて生きていくことと勘違いしてしまいやすい。だから、パウロやモーセのように喜びをもって、神に全面的に従う、神に自分をささげて生きていくことにはなかなかなりにくかったりする。しかし、大事なのは神をよく知ることだ。私たちが信じる神は、独裁者のような横暴な神ではなく、愛の神である。神は、私たちの心をねじ曲げてまでも、従わせるような方ではない。神は、私たちに服従を求められるが、私たちの意志を十分に尊重してくださり、私たちに祝福をもたらされるためにこそ服従を求められるのである。

次にパウロは、自分が神に選ばれた人々の信仰を導き進ませるために、神のしもべとされた、と理解していた。神は、私を選んで、神を信じ、神と共に歩むようにしてくださった。そればかりかそういう人々の信仰を助け、敬虔の知識を深めるために、今、私は生きている、という。正直なところ、私たちは、他人の信仰を助けるよりは、まずは自分の信仰が守られることが精一杯で生きているものではないか。

ともあれ、こうした二つの自己認識を支えるのが「永遠のいのちの望み」なのだろう。永遠のいのちの望みがあるから、私はこういう生き方ができるのだし、するのだというわけだ。

さて、パウロは、テトスをクレテに残したのは、仕事の整理をし、「町事に長老たちを任命する」ためであったという(5節)。ここで「長老」と呼ばれている人物は、7節では監督と呼ばれている。長老と監督は同じ職務の異なった名称と考えてよい。なぜ町ごとに長老たちを任命するのか。それは偽りの教師の増加と関係している。質のよい指導者を選び、任命する、それが、偽りの教師に対する最良の策でもある。教会に必要とされるのは質のよい指導者である。テモテへの手紙でも、パウロは、牧師の資質について触れているが、ここでもパウロは、上に立つ者の資質について触れている。こうした資質に貫かれている考え方として、やはり、神の真理に立っているかどうか、がある。神の真理には、信じる人の生活を全く変える力があり、また永遠のいのちを与える力がある。注目すべきは、役職を担う人を選出するにあたり、霊性の方が賜物よりも大事にされていたことである。

また、ここでの資質は、1テモテ3:1-7の説明とよく似ているが、違うところもある。というのは、「信者になったばかりの人であってはいけません」と言う指示はない。これはテトスのいたクレテ教会が、テモテのいたエペソ教会とは違って、建てられて間もなかったからなのかもしれない。しかし、非難されない者であることに強調があり、家庭的に(6節)、個人的に(7,8節)、教理的に(9節)非難されない者であることが語られる。確かに、牧師の適性についての高い基準を維持する、非難されない点は大事である。そうであればこそ、教会もはるかに健康なものとなるからだ。今日も主にあって整えられて歩むこととしよう。

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