1章では、長老について、2章では、それぞれの信徒を教え導く内容となっている。共通に示される目標は、すべてのことにおいて「教えを飾る」ことである(10節)。つまり聖書の教えに生きる美しさが、人々への証となり、神を崇めさせることにある。テモテにもパウロは同じような指示を与えているが(1テモテ5:1-6:2)、先のテモテへの手紙では、それぞれの信徒とどのような関係をとるかが語られていたが、ここテトスへの手紙では、どのような目標を与えるかに中心がある。そこで、パウロは、まず老人から始め、青年、奴隷(労働者)、それぞれが何を生き方の基本に置き、どのようにキリストの教えを飾るべきであるかを語っていく。
第一に、老人には、自制と慎み深さが大事なのだ。老害と言われることばもあるように、自制力を欠いては、信仰と忍耐と愛において健全であることはまず難しい。
次に老婦人も同様で、特に女性は、陰口をたたくこと、批判とうわさ話をしないことが基本である。しかし、神の教えを飾るためには、さらに「良いことを教える者である」ことに努めて行く者でありたい。悪いことをしない、というのではない、むしろ進んでよいお手本となり、よいことを語る、これが特に老婦人求められることである。というのも、それによって若い女性に対して、諭すこともできるし、神のことばもそしられることはないからだ。
次に若者には、「思慮深く」あるようにと語る。若者に必要なのは、後先のことを考える力、物事を考え抜く力である。若い時には努めて、知恵を巡らし、十分に考え抜く癖を身に着けたい。そうすれば、良識的に、筋道を立てて物事を話し、反対者たちの口を封じることにもなる。
最後に奴隷(9節)であるが、今日で言えば労働者に対する勧めと考えてよいだろう。すべての点で自分の上司に従い、満足を与え、口答えをせず、盗みをせず、努めて真実を現わすように勧められている。たとえ尊敬できない上司であっても、神がちょうどよい時に、私たちを高めてくださるのだから、忍耐を働かせるべきである。
さて以上の動機づけとして三つのことが勧められる。神の恵み(11節)、主の現れ(13節)、主の贖いの死(14節)である。
大切なことは、神の教えを飾るといっても、自分の力でするわけではないことだ。パウロは「良い行いをも神は備えてくださる」(エペソ2:10)と語っている。クリスチャンのよい行いは、見せかけではない。神が上から与えてくださるものであり、自然に内側から出てくるものである。そこを勘違いしてしまうと、キリスト者の生き方は、非常に偽善的、建前的なものになるだろう。
大事なことは、神の恵みを味わうことである。「すべての人を救う神の恵み」に日々浴することだろう。まず私たちが深く神に愛され祝されていることを味わえばこそ、私たちも自制し、謹厳で、つつしみ深く、愛と忍耐において健全であるようになる。
そういう意味では、キリスト者は、背伸びをしてキリスト者らしい生き方を装うことは求められていない。むしろ、聖書を通してまことの神のいのちに生かされる、いける誠の神との関係に生きることが大切なのだ。私たちの内側に大きな変化が起こらない限り、どんなに体裁を整えても、いつか、内側のドロドロした人間臭い汚点は自然に外に出てしまうもので、キリスト者になったと言うのに、と人々をがっかりさせてしまうことになりやすい。内側の変化は、自分の力で何とかできるものではない。それは神の力、奇跡的な神の癒し、聖めの力にあずかることなくしてなしえないことである。この私は罪人以外の何物でもないという深い自己認識と、自分の内側には良いことを成す力は何もない、という全くの無力感をもって、神のあわれみによりすがり、実際に、神の力にあずかって生きるのでなければ、私たちは真に人を活かす神の言葉を語ることはできないのである。