パウロは、神と全人類のさばき主としてのキリストを証人として、厳粛に命じている(1節)。「みことばを宣べ伝えなさい」真剣な命令である。「時が良くても悪くても」好むと好まざるとかかわらず、福音宣教と聖書教育に力を尽くす(2節)、そこにしっかり取り組むように、とパウロは言う。というのも、それは重要な職務であるのみならず、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、気ままで自分本位に真理から離れ、空想話にそれていく時代になって来ているからである(3節)。パウロの時代がそうであったとするなら、現代はなおさらそうであろう。「しかしあなたは」(5節)、とパウロはテモテに向けて、いよいよ目を覚まして、あらゆる状況に対応する心構えで、困難に耐え、堅実に聖書の教えを語る務めを全うするように、と勧めている。
テモテの使命を確認させた後、パウロは自分について語る(6節)。「注ぎの供え物になる」というのは殉教の覚悟を語るものだろう。「世を去る」ことはもう確実に予測されていたことであった。しかし、その言葉は、「錨を上げての出航や天幕をたたむ」ことを意味することばが使われ、死の暗さを感じさせない。パウロに残された時間はわずかであった。パウロは自らの人生を総括し、それが神と福音のための戦いを戦い抜いた生涯であり、なすべきことをなし終えた、つまり途中蜂起でも志半ばでもなく、完結し、守り抜いた生涯である、と考えている。だから、パウロの心には、「今からは」という次のステップが思い描かれている。死を目前にしながらも、なお希望を抱いているのはそのためである。「義の栄冠」は「栄冠としての義」をいただくことで、主は、それをパウロのみならず、ご自身を慕っているすべてのしもべに与えようと準備万端である。
さて、パウロはテモテを呼び寄せようとする(9節)。彼のそばに残っていた同労者はルカのみであった。パウロは、最後の時と心得、少しでもテモテと時を過ごしたいと思っていたのではあるまいか。「デマスはこの世を愛し、私を捨てて」という。本来神に向けるべき愛を世に向けて、交わりから出て行く人々がいる。牧会をしていると、どうにもならない霊的現実にぶつかることがあるものだ。クレスケンスとテトスは、パウロを捨てたわけではない、おそらくそれぞれの働きのために離れていったのだろう。パウロは、マルコがテモテと一緒に来ることを願っている。パウロは、はじめマルコを評価しなかった(使徒15:36-41)。そして、マルコを仲間に入れようとしたバルナバとは、その後二度と一緒に活動することはなかった。しかし、今やマルコを呼び寄せようとしている。マルコはペテロの通訳者として活躍し、この時には福音書を書いていたことだろう。バルナバの名が出てこないのは、もはやこの時、バルナバが存在しなかったためなのかもしれない。ともあれ、主にあって成長したマルコをパウロは認めていた。パウロはいつまでも根に持って人に対する見方を変えないような人ではなかった。テキコはテモテへの手紙をエペソに届け、テモテの留守中の代役を担うためにエペソに遣わされたようである。テモテに、トロアスで残してきた上着を持ってくるようにお願いしている。パウロはそこで逮捕され、上着を取り上げる暇もなく、連れてこられたのかもしれない。想像すれば、パウロに対する迫害の生々しさを感じるところだろう。「羊皮紙の物」は、聖書のことと思われる。アレキサンデルは、パウロをどのように苦しめたのかはよくわからないが、「ひどく苦しめ」には「訴える」の意味もあるので、パウロの逮捕と関わったのかもしれない。どうであれ、パウロは自分たちに逆らった彼を、神の裁きにゆだねている。「復讐するは我にあり」と言うように、委ねなければならないことがある。また自分の魂の守りも、主に委ねなければならない。そして主の守りと助けを、学ぶことである。
最後の祝祷は、テモテ個人とエペソ教会に対する二重のものとなっている。テモテに対しては、主がともにいて内なる人が助けられ強められるように祈り、教会には恵みを祈っている。教会はキリストの恵みによって守られ、導かれるからである。そうであればこそ、私たちも喜びをもって、自分たちができることに専心するのがよいと思えるのである。