テモテへの手紙第二2章

パウロは非常に実際的である。臆病になり、牧師として立っていく自信のないテモテに、主の助けに信頼するように語るのみならず、そこからどうしたらよいのか具体的に指示を与えている。牧師として整えられるのは、まさに神の恵みの力によるものである。だから、恐れずにその職務に立ち向かうべきである。神が助けてくださるのだから、安心して今日も、パウロの具体的な指示に従っていこう。

ではその指示とは何か。パウロは、四つのイメージを取り上げて語りかける。第一に牧師は管理者である。教える力のある者を見極め、ゆだねていくことだ。信徒一人一人の霊的状態や性質、成熟度に、しっかり目を向けているのが牧師である。そしてそれにふさわしい導きを与えることだ。教える力のある者がいれば、その者を自分の同労者、協力者としていくことだ。イエスも十二弟子を選び教育に専念された。そのように人々が育てられていく時に、次の世代の信仰者が生かされていく。

第二に、牧師は兵士にたとえられる(3-4、8-13節)。兵士に学ぶのは、不屈の精神と忍耐である。そして日常生活よりも兵役義務を優先させる、全身全霊の努力である(4節)。今自分はそのような場に置かれているという自覚を持ち、そのようなマインドセットをすることだ。

第三に、牧師は競技者である(5節)。ここでは、ルールに従うべきことを語る。選手は、競技に相応しい基準を満たさなければ参加できなかった。またルール通りに競技を進めずして、勝利することはできなかった。人間的に見れば、パウロは敗北者であったことだろう。「アジアに入る者は皆」彼から離れ(2テモテ1:15)、彼を応援する者は誰もおらず、投獄され悪人として扱われていた。しかし実際にはパウロは勝利者であった。パウロは神のことばのルールに沿って、正々堂々と戦ったからである。

第四に、牧師は朝明けとともに、働きだす真面目な農夫である(6-7節)。真の働き人は、勤勉でたゆまない努力をしている。私たちは思いが妨げられ、世の不正に蹂躙されると、自分をなし崩しにしてしまいやすい。だが、朝日と共に、畑に出る農夫のように、今日も、まず神の畑に出ることだ。そして、実りの状態をよく見て回り、雑草は抜き取り、適宜水と必要な肥料を与え、こまめに神の畑で働くことだろう。主は、その努力を祝福してくださる。

7節、パウロはここで間を取り、今教えたことについてよく考えるように勧める。聞いてわかったつもりになって、何もしないのではなく、聞いたことを自分の生活の中に具体的に落としていくことなのだ。そのためには咀嚼が必要である。牧師が力を受けるのは、主のみことばをしっかりと洞察することによる(7節)。そしてキリストの模範についてしばらく脱線する(8-13節)。私たちに勝利をもたらすのは、キリストに対する信頼である。もし、キリストと共に苦しみ、死ぬなら、その結末も同じである。つまりキリストと共に復活し、治めるようになるだろう。苦しみが苦しみで終わらない、死が死でなくなる、その展望と信仰を持って働きに就かなくてはならない。

14節からの後半では、避けられない偽教師に対する対処法が語られる。まず積極的に、くだらない争いごと、論争から距離をおくべきである。「真っ直ぐに解き明かす」(15節)は、真っすぐに畝を耕す、真っすぐに板を切る、真っすぐに縫うなど様々な仕事に適用することができることばである。牧師は、神のことばを真っ直ぐに説き明かす働きのために、絶えず努力しなくてはいけない。一方消極的に「不敬虔」を避けるべきである。パウロは、偽教師の名を具体的に上げ、彼らの間違いを指摘する。ヒメナオとピレト。彼らは二人とも復活がすでに起こったと教えることによって「真理からはずれて」しまっていた。おそらく彼らは、復活は霊的なもので身体的なものではないと教えたのだろう。しかしキリストが肉体を持って復活されたように、私たちも身体的な復活を約束されている(1コリント15章)。間違った教えが蔓延っても、聖書の真理は不動である(19節)。

20節の器のたとえは、唐突にも感じられるが、結局、イエスの毒麦のたとえと同じように考えることができるだろう。教会には、有益な者、よいわざに間に合う者とそうでない者が混在している、ということである。もちろんまことの教師と偽りの教師の混在である。忠実な牧師は金や銀の器のようなもので、イエス・キリストに名誉をもたらす。偽教師は、価値なき木や土の器である。どんなに人気を博することがあっても、不名誉な道具である。パウロは有益な器になろうとする者に、命じる。「避けなさい、求めなさい、戦いなさい」真の聖書的な分離主義は、孤立主義ではないバランスを取る。避けるべきものを避け、追い求めるべきものを追い求める。

そして偽教師そのものについては、「柔和な心で訓戒する」ことが勧められる。しかし過度に期待してはいけない。「もしかすると」悔い改めの心を神は与えてくださるかもしれない。彼らを正していくのは、私たちの業ではない。神の領域である。絶えず、神の恵みにより頼み、神が働くことを求める、これが牧会者なのである。

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