ネヘミヤ記13章

13章 ネヘミヤの宗教改革

<要約>

おはようございます。ネヘミヤの一連の宗教改革の要点が描かれていきます。城壁を再建し、新しいスタートを切った新しい神の民が心得るべきこと、中心に据えるべきことは、やはり礼拝であり、それをあらゆる観点から守っていくことでした。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.礼拝の民を育てる

城壁再建後、再び行われたネヘミヤの宗教改革が記録される。改革されたものは改革され続けなければならない。まず彼は、アンモン人やモアブ人の混血の者を「イスラエルから取り分けた」。それは、イスラエル人社会からの追放ではなく、神殿礼拝、宗教儀式に参加させなかった、という意味である。イスラエルは、まことの神に仕える民なので、異教の習慣を捨てようとしない者はその宗教儀式から締め出されたのである。

大切な点だろう。礼拝は、やはり神を覚え、神を崇め、ひれ伏すところに本質があるのだから、そのような場となる配慮が必要だ。実際そうであるからこそ、主を真剣に求める人々も、その雰囲気の中で、神を知るに至るのである。もちろん求道者への配慮は必要とは言え、日本の教会は、求道者へ気を使い過ぎて、また人間関係を重んじるために、どうしても、何を目的とした集会なのか、わからなくなることがある。ネヘミヤの人づくりの第一は、礼拝を礼拝として意識し、大事にする人々を育てることであった。

2.神殿を神殿として機能させる

次のトビヤとの絶縁は、大祭司職にある者の不正を正したものである(4-9節)。ネヘミヤは、エルサレムに12年在任した(BC445-433)。その後、ネヘミヤは報告のために一時的に王のもとに戻ったようである。その間、大祭司エルヤシブは、かつて城壁修復工事に反対したアモン人の役人トビヤに神殿の部屋を提供していた。

その部屋は、祭司のための奉納物を保管するためのものであったが、奉納物は集まらず機能せず、空き部屋になっていた。その代わり、金銭的に何かと役立ったトビヤにその空き部屋を自由にさせていたのである。ビジョンのないところには、こうしたいい加減な事柄が起こってしまう。ネヘミヤは怒った。トビヤを追い出してその部屋を聖別し、本来の用途に戻した。

教会にとって本質的なことは礼拝と祈りであり、教会におけるもっとも重要な奉仕は、礼拝と祈り会に参加すること、そして献げること、それが中心的なものであろう。教会を教会として考え、教会の建物をその用途に応じて正しく用いていく人を育てる、それが第二のポイントである。

3.奉仕者が尊重される

さらにネヘミヤは、レビ人の処遇を改善した(10-15節)。ネヘミヤ不在中に起こったエルヤシブなど指導者層の妥協、不熱心は、イスラエルの民にも蔓延し、イスラエルの民は、律法に定められた10分の1の献げものを献げなくなっていた。トビヤの事件は、こうした絡みで起こったものなのだろう。つまり安易にお金持ちに財政援助を求め、教えるべきことを教えなかった大祭司エルヤシブの姿勢は、他のレビ人にも影響したのだ。奉仕によって生計が維持できなくなったレビ人は、農耕によって自活しようとし、神殿奉仕を放棄していたのである。ネヘミヤは、ここでも修正を試みている。ネヘミヤの厳しい態度は、レビ人を復帰させ、ユダの人々に10分の1の献げものを献げさせる効果をもたらした。注目すべきは、こうしたネヘミヤの姿勢が、彼の神に対する愛から生じている点である。彼はただ律法的であったわけではない。神への愛という本質的な事柄を形にしようとしたのである。

確かに、礼拝によって信徒は恩恵を受けるわけなのだから、その恵みにしっかり応答する。愛は痛みをもって経験されるというように、ちゃんと献げるべき分を献げ、教会が機能するように支えていく信徒を養う、これがネヘミヤの人づくりの第三のポイントであった。

4.神の安息を喜ぶ

第4にネヘミヤは安息日の改革をはかっている(15-22)。農業従事者も、商人も運搬者も、外国人もユダヤ人も、安息日の規定を全く無視した生活を送っていた(15-16節)。10分の1の献金といい、安息日を守ることといい、今日の教会には示唆的である。

どんなに教会が教会らしい建物を持ち、人が集まる活況を呈していても、大切にすべきことがいい加減になっているとしたら、そこは正されなければならない。イスラエルの国が滅びたのはもともと安息日をないがしろにした結果である、とネヘミヤは思い起こさせている(18節)。富を求め、豊かさに生きることは、必ずしも悪というわけではない。大事なことは、休むべき時に休む、そして、自分を祝福してくださっている神を喜ぶ、そのための日を聖別する心がけをもった信徒として成長することである。大切にすべきことがいい加減になっているとしたら、そこは正されなければならない。イスラエルの国が滅びたのはもともと安息日をないがしろにした結果である、とネヘミヤは歴史的教訓を思い起こさせているのだ(18節)。礼拝は、まさにクリスチャン人生の要である。それは神を認め、神の御業を想起し、神への信頼と献身を新たにする時だからだ。神を心から愛することの証だからである。

5.慎重な選択を促す

最後にネヘミヤは雑婚を禁じた(23-29)。結婚の問題は、いつの時代にも、難しい問題を起こす。信仰は、一生涯の共同生活においては、根本的問題である。パウロが若い青年が身につける価値の第1として思慮深さをあげたのは理由なきことではない(テトス2:6)。よく考え抜いて結婚もし、就職もする、それはよくよく、教えられなければならない。浅はかな選択が結果、余計な苦労を一生しょい込む結果にもなる。真に霊的な識別力を持ち、神に祝福された人生を歩んでいきたいものである。

 

 

 

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