5月19日 ブログオフ会
「神のあわれみ」その他がテーマとなり、良き追加の学びとなりました。
1.旧約聖書におけるあわれみ
「あわれみ」は、ヘブル語ではラハミーム、「胎」を表すレヘムから派生したと考えられています。そこから、この語は同じ母の胎から生れ出た兄弟間における切なる情や、自分の胎から生れ出た子供への母の切なる情を表現するものとされてきました。
つまり、余力のある者が、力なきものへ上から目線で関心を抱き、救い出そうとするような意味はなく、むしろ、身内的な情というべきものです。ですから、旧約において、語られる神のあわれみは、親子、兄弟間の親密な情として語られて
います(詩篇103:13、エレミヤ31:20)。
さらに、神のあわれみは、肉親の情に基づくのみならず、夫婦のような契約関係の情に基づくものとしても語られています。つまり、出会い間もなく、愛情に浸っている夫婦のみならず、相手が契約の担い手として相応しくない場合が生じた時でも、一度契約が結ばれたならば、肉親の情が沸くことがなくても、それを守り抜く意志として語られているのです(ホセア2:19、23)。神のあわれみは、肉親の情を超えた、極めて固く、強いモノだ、と言えるでしょう。
2.新約聖書におけるあわれみ
新約聖書においては、あわれみと訳される基本的な単語はギリシヤ語のエレオスです。一般的に、よく理解されるように、窮伏にある人々に対する同情の念を意味しています(1ヨハ3:17)。しかし、神のあわれみを語る時には、旧約の契約に基づくあわれみの延長線上にある意味をもっています(ルカ1:50、54、72、78、1ペテ2:10)。このような神のあわれみの究極の描写が、イエス・キリストの十字架にあると言えるでしょう(ヘブ2:17、4:16)。ですから、あわれみは、単に窮状にある人々を助けてあげる、というものではなく、自分がそれによって不
利になることがあっても、自分が失われようとも、無に帰せられようとも、愛の誓いを果たすという強い意志力に基づいた、関りというべきです。そして、人にあわれみ深い神は、人にもまたあわれみ深くあることを求めているのです(ルカ6:36)。