<質問>
神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された、という。しかし、神は人間のために何を失ったのか。神は十字架で苦しんだというが、実際には、永遠の神からすれば、それは一瞬、瞬きのような瞬間的な軽い苦しみ、つまり苦しみにも痛みにも、喪失にも値しないものではないか。
<回答>
初め、どのように答えてよいものかわかりませんでした。というのも、キリストの十字架の苦しみが簡単なものとは考えたこともなかったからです。私がキリストであったら、その苦しみに耐えられるかどうか、嘲り、嘲笑、過酷なむち打ち、そして精神的孤立、最後に十字架の貼り付け。キリシタン史をひも解くと、殉教者の多くは「マリヤ様が見えた」と天を見上げています。しかし、イエスは、神の裁きを身代わりとして受けるために、結局神からも顔を背けられるのです。その悲痛な叫びが「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」でした。キリストは、人間だけではない、神からも切り捨てられる苦しみを味わうわけです。それが簡単なこと、小さなこととは考えたことがありませんでした。
しかし、確かに、キリストは人間であると同時に、神である。そのお方が、十字架で苦しんだと言っても、人間が苦しむのとは大違い、人間は有限なもの、「私たちの齢は70年、健やかであっても80年、そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(詩編90:10)とあるようにです。ただ、キリスト教信仰は、この質問に別の光を投じてくれるのです。というのは、人間を有限な者と見ること自体が誤りである、と。パウロは、明確に、私たちが、天地創造の初めから、神にあって意識されていたことを語ります。エペソ人への手紙1:4「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」(エペソ1:4)と。世界の基が据えられる前から、つまり天地創造の前から、私たちは神に覚えられ、選ばれていた、と。私たちのいのちは、つい、20年前、あるいは、50年前、70年前に始まったものではありません。そして、私たちは神の御計画のもとに、今のこの時代、この場所に生きるように導かれている。そして、大事な点は、キリストの十字架の苦しみによって、私たちは永遠のいのちを与えられ、神の子とされた、ということです。私たちの死後に待っているのは、永遠の安息と平安です。となれば、条件は、神も人も同じだ、ということです。人間は有限であって、神は永遠ということはない。人間も神もどちらも永遠である、ということです。
そして神はその救いの目的を果たすために、神であるありかたを捨てて、本来は、栄光の王として地上に現れることもできたのに、まさにイスラエルの貧困の家庭に中に生まれ、庶民以下の暮らしをし、人間の苦しみをつぶさに味わい、そして十字架の苦しみを受けてくださったのです。となれば、比較の問題ではないのですが、やはり神もまた、多くのものを失う中で、私たちの救いを達成してくださったと考えるべきなのでしょう。神も得るべきものを得ず、むしろ、最も不利な人生をわざわざ選択する中で、私たちにその愛を表してくださったと言うべきでしょう。完全な答えになったかどうかわかりませんが、私の考察が深まったなら、さらにアップデートしたいと考えています。