ヘブル人への手紙10章

ヘブルの著者は、律法を良きものの影であるという。それは、プラトンが語るような、イデア的な意味ではない。プラトンは、心の目によって洞察される、ものごとの真の姿があるとした。しかし、著者がここで言っているものは、来るべき実態をあらかじめ語るものについてである。つまりキリストは、後に来るべきものだったのであり、律法の実態となったものなのだ、というわけである。

著者はすでに9章で、「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、また血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」と語っている。これは律法の考え方である。しかし、「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができない」つまり現実問題として、その儀式をしてみたところで、かえって、これらのささげ物によって罪が年ごとに思い出される、赦されたはずのあの罪、この罪が繰り返し赦されることになるのであり、本当の意味での心の救いや、魂の安らぎはいつまでも得られるものではない。それは繰り返されなければならない。

しかし10節、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより」すべての罪と不法が神によって忘れられる、神の記録からも消し去られるのだ、という。つまり、律法が暗示してきたことは、イエスキリストの十字架によって実現したのであり、その罪の赦しは完全で、一度限りで、永久に効力を持つものなのだ、というわけである。その意味をよく考えてみよう。もはや私たちは、いつまでも奴隷のような恐れをもって、神の前に立つことは不要である。むしろ、自由の子、解放された子、主にあって喜びを持った子として、次のことを確信すべきである。

1) 私たちは聖なる者とされている(10節)。神は私たちを、ご自分のいのちでもって聖別し、特別なものとしてくださった。

2)私たちの聖めは完成されている(14節)。私たちはいつまでも罪悪感や罪意識に悩んでいてはならない。神に受け入れられるにふさわしい者とされている。あるいはそう見なされている。

3)現に神は私たちの罪と不法とを思い出すことはない、と約束される(17節)。過去の罪や不法は、神の記録から永遠に消し去られ、自分を訴える証拠として取り上げられることはない、と神ご自身が約束している。

4)もはや、罪のきよめのささげ物を不要としない事実が、そのことを明らかにしている(18節)。私たちは、神との新しい関係に入れられているのであり、それはもう逆戻りのできない関係である。

5)だから大胆に神に近づくことができる(19節)。イエスの十字架がまさにそのことを実現してくださったのである。

6)そしてこのイエスが、私たちの祭司としていつも共にいてくださっている。いつも、神に近づく時に、イエスも私たちと共に神の前に立ってくださるのである。

これらの真理をしっかりと受け止めていくことが信仰であり、きよめの生涯を歩むことである。そこで著者は、具体的にまことの礼拝と信仰の歩みへと読者を招いている。

1)真心から神に近づこう(22節)神に近づこうとする心のない信仰は偽りである。

2)確かな希望を持とう(23節)神を知らない人のように落胆してばかりではいけない。

3)愛と善行を行うようにしよう。愛の神がいるというのなら、その神を知っている者として相応しい生活をすることである。

4)集会を休まないようにしよう。当たり前にすべきことを当たり前にすることである。

5) 罪は捨て去ろう(26-31節)

6)忍耐を持とう(36節)見知らぬ者同士の間では、忍耐は発揮されない。家族のように支える者があればこそ忍耐は力強く発揮される。

7)信じよう(39節)。神が最善をなしてくださる、ということをどこまでも信じて、歩んでいくことである。私たちが信仰によって歩む時に、偉大な大祭司が私たちを導き、その霊的成長を完成させてくださるのである。日々、新しさの中に歩ませていただこう。

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