神の祝福を覚え、新しい契約に積極的に生きていくために最も大事なのは、神を信頼することである。それは、「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる」。具体的に、どのようにして?ヘブルの著者は、旧約聖書の具体例を挙げながら説明する。
第一に、アベルは信仰によって礼拝した(4節)。礼拝は信仰をもってささげる行為である。今日も説教に間に合った、今日の説教はよかった、物足りなかったではない。礼拝は、信仰をもって神を認め、神に近づき、神と良き時を過ごすことである。レビ記に教えられる礼拝は、ささげ物をささげる礼拝であるが、その本質は今日においても変わらない。聖めと献身の時であり、同時に労働の実をささげ、神の守りと祝福を喜ぶ時であり、さらに罪の赦しと恵みを感謝する時である。礼拝の中心に神が覚えられ、神に心傾ける時がなくてはならない。
第二に、エノクは信仰によって神に喜ばれる生き方をした(5節)。神を認めずして、神が喜ぶ生き方をするなど出来ないことである。エノクは、神がおられること、求める者には報いてくださる方であることを覚えながら、人生を歩みとおしたのである。なんと多くの人が、神を認めず、神に期待もせずに生きていることであろうか。
第三に、ノアは信仰によって家族を導いた(7節)。当時、地上に箱舟を建造したノアの行為は、奇怪でバカげたことと思われた。しかし、ノアはそれが家族の救いのために必要なことと認識し、最後までやり遂げた。彼は家長として必要な責任を果たしたのである。家長としての信仰者の務めがある。
第四に、族長たちの歩みは、まさに神を認めるのみならず、神の意志に従う歩みであった(8節)。アブラハムは神のみこころに自分をささげて歩んだ。だから約束された地に、息子のイサク、孫のヤコブと共に三代に渡って寄留者としてとどまり続けた。彼らが生きている間にその土地が所有されたわけではない。しかし、アブラハムは地上の繁栄に勝って、神が与えてくださり、神が立ててくださる都に住まう祝福を求めていた。人間の可能性ではなく、神の可能性にかけて生きていた。だから、「死んだも同然の人」から、海辺の砂のように数多くの子孫が生まれ、やがて、約束された地は彼らのものであることの揺るぎない保証を得たのである。不可能性の可能性の中に生きた族長たちがいる。
第五に、モーセは、信仰によって戦った(23節)。モーセは、エジプトの王子として王宮の安楽な生活をむさぼることもできた。しかし、彼は、そのような生活を拒否することを敢えて選択した。そして、苦しめる神の民と共に生きる道を選んだ。それは信仰によるものである。その結果、彼は、イスラエルの民に解放をもたらした。
信仰は、信仰者に正しい道を選ばせ、正しい歩みを導く。しかし信仰がなければ、私たちは肉のままに振る舞う。だから、地位や、名声、力、富、そうしたはかない楽しみに惑わされて生きることになる。信仰は、私たちの目を開き、はかない楽しみの惑わしではない、はるかにまさる大きな富に目を注がせる。信仰は、私たちの道を切り開き、神によって与えられたビジョンを実現する。
最後に、ラハブは信仰によって神に応答した(30-31節)ラハブは、遊女であり、イスラエルの敵であった。しかし、信仰によって偵察隊を穏やかに受け入れたので、イスラエルの剣を逃れた女性である。彼女を救ったのは、彼女の信仰であったというが、当時の彼女は、霊的真理についてはほとんど無知同然であった。イスラエルの神について、イスラエル人同様の知識があったわけではない。彼女が知っていたのは、神がイスラエルをエジプトから解放し、紅海に道を開いたこと、イスラエルが荒野を彷徨っていた時に神が他の国を打ち破ったことである。しかしそれだけの知識で「あなた方の神、主は、上は天、下は地において神であられるからです」(ヨシュア2:11)と神に従順を示した。神はそのラハブの信仰による応答を評価された。たとえ今、知っていることはわずかであっても、神の召しに応えるならば、神はそれを祝福される。