「聞いたことに心を留めよ」という。それは、キリストのみ使いに勝る高さを覚えるからこそである。古い啓示である旧約の律法は、み使いの仲介によって伝えられたが、神の最終的な啓示は、御子イエスによって与えられたのであるから、それ相応しい応答が必要なのである。実際、福音の真理や教えは、生死にかかわる最も重要なものである。実際、旧約の律法に対する違反と不従順は、厳しい処罰を伴った。となれば、ましてみ使いに勝るキリストの救いの言葉をないがしろにするなら、その当然の結果を受けることになるだろう、というわけである。
日本人の信仰は二階建て信仰であるという。二階は牧師の書斎であって、牧師が学んだことを分かち合う場である、あるいは礼拝の場であるという。そして信徒は一階に住んでいて、一階と二階には、細い階段があるのだという。だから毎週日曜日になると二階に上って行って、そこで牧師の説教を聞き、ああいいことを聞いたと一階に下りて行くやいなや、二階とは全く別の日常生活が始まってしまうのだという。聞いたことが心に留められない。そんな現実がある。聞いたことは聞いたでよしとするのだが、普段の生活はその聞いたこととはまったく別の原理で動いてしまうのである。聞いたことをしっかり心に留め、押し流されないようにする自覚的、意識的信仰が私たちに求められていることである。
福音は主によって語られ、聖霊をもって証しされた。まさに、ペンテコステの時に、また、初代教会の宣教の働きの中で、その福音のメッセージは確かなものとして使徒たちによって証されたものである(3,4節)。神が全霊を注いで伝えようとされたものであるが故に、私たちはこれに真摯に向かい合わなくてはならない。
そこでヘブルの著者は、5節から、キリストのみ使いに対する優越性について、さらに述べていく。先の1章では、キリストは神の子であり、み使いは、キリストに仕える者と定められていたことを語っていたが、ここでは、キリストが世界の統治者であることを明言している。旧約時代において、世界の統治はみ使いに任されていたことを私たちは思い起こさねばならない(申命32:8)のである。しかし、新約の時代に入り、それは、しばし低くされた方、イエスに帰せられたのであり、万物がイエスに従うものとされている。
大切なのは、その万物の支配者であり、創造主であるイエスが自らを低くされたことの意味である。それは、語られただけではなく、実際に、獲得された救いである。つまり、イエスはマリヤより生まれ、私たちと同じ血と肉をとり、私たちの生活を味わい、十字架にかかられ、低くされた。そして、語られた通りの罪人の贖いを成し遂げてくださったのである。しかもその福音は、罪人がキリストの恵みにより、兄弟姉妹として迎えられイエスの高さに引き上げることを明らかにしている。み使いではない。キリストが低くしてくださったところから再び戻られる同じ高さに、私たちも引き上げられ、キリストの栄光に与るのである。キリストの救いは、それほどに素晴らしい内容を持っているのである。
十字架の話はよく聞く。復活する話もよく聞く。しかし高挙された話はあまりされない。イースターにおいて大切なのは、復活し、高挙されたこと。神が栄光と誉れの冠を授けられて神の右の座にあること。勝利者となったこと。しかしその勝利者であるイエスが、その高さに、私たちを招いてくださっていることに、そのさらなる素晴らしい福音のメッセージがある。
実にイエスは、その高さに戻られながら、私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされないとも言う。
また、イエスが自らを低くされたと言う時には、私たちの敗北の低さに立ってくださったということでもある。完全に、私たちの敗北の状況に降りてきてくださった。そこから復活の道があることを示してくださったということが大切だ。神が助けてくださるのは、アブラハムの子孫である。試みられている者である。弱く、敵対し、罪人とされている者である。神に対する信仰や忠実さを捨て去るように試みを受ける中で、卑しめられ、弱くされている状況にあって、この自らを低くし、勝利をもって、私たちをとりなしてくださっている方を覚えることは、実に大いなる励ましとなることである。今日も私たちには、主の大いなる関心と深い愛が注がれていることを覚えて歩ませていただこう。