キリストが何をしてくださったのか。私たちを栄光に導くために、十字架の道を歩み、完全な贖いを成し遂げ、今や私たちのとりなし手となって、天の右の座に着いてくださっている。この天の召しに、私たちが与っていることを覚えて、主イエスに信頼しよう、とヘブルの著者は呼びかける。そして、み使いとイエスの比較において重要だったのは、その至高性にあったのだが、続いて、著者はモーセを取り上げ、その大祭司としての忠実性を比較し、イエスがモーセに勝る者であることを力説し、イエスに対する深い信頼を促すのである。
本来イスラエルの大祭司であったのは、モーセではなく兄のアロンであった。しかし、神の御前における真の弁護者として忠実にその使命を全うしたのはモーセである。金の子牛の偶像崇拝に陥った時にも、民をとりなし、民の為に嘆願したのはモーセであった。神はそのモーセの働きを忠実であると認め(民数12:7,8)、それゆえにイスラエル史の中においては、偉大な存在である。しかし、そのモーセとて、イエスの忠実さにはかなわないのである。モーセの役割は、約200万人とされるイスラエルの民を、エジプトから導き、約束の地カナンへと向かわせるために、神のしもべとして働くことであった。しかしイエスはそれ以上である。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟」という海辺の砂のような、数えきれない神の民を罪の滅びの淵より導きだし、新しい都エルサレム、永遠の安息へと向かわせるために、仕えておられる。そのイエスを認め、イエスの声をよく聞きなさい、ということになる。
私たちは、かつてモーセに導かれて荒野を彷徨っていたイスラエルの民同様に、今はまだその安息にはない。しかしやがて私たちはまったき安息を得る。それは、身体的、精神的、霊的、関係的な安息を得る素晴らしいものである(黙示録21:3,4)。かつてのイスラエル人は、その安息に入ることができず40年彷徨っていた。それは教訓とされなくてはいけない。同じ失敗を繰り返してはいけないのである。
だから次の聖霊の警告に耳を傾けることにしよう。
(1)昔のイスラエル人のように心を閉ざしてはいけない。心を鋼鉄のように堅くして、神の導きに文句を言ったり、反抗したりしてはいけない(8節)。信仰を持って踏み出していながら、この歩みに主の祝福はない、間違った道を来てしまったなどと思うようなことがあってはいけないのである。
(2)不信仰に凝り固まって、イエスから離れることのないように、自分の心を見張りなさい(12節)。不信仰であってはならない、というのは、まさに今日、この日において、ということである。今日、この日、一瞬一瞬の積み重ねである。今不信仰に気づいたなら、その不信仰の連続性を断ち切らなければいけない。そして信仰の連続性に変えるのである。
(3)日々、互いに励まし合い(13節)。信仰は、個人的な営みでありながら、同時に、共同的な営みである。私たちはやはり互いの励ましを必要とする。互いに信仰を支え合う心を持たなければならない。互いに声を掛け合って、天の召しの素晴らしさへと向かっていくことが大事なのである。天国は一人で、自力で入れるところではない。
(4)最後まで忠実でありなさい(14節)。荒野の試練に疲れ果ててはならず、荒野の現実に目を奪われすぎてもいけない。私たちは今ここを通過しようとしているだけであり、約束の天の都に入ろうとしているだけなのだ。
(5)神を信頼しよう(19節)。今日、この日、神に聞き、従うという姿勢を大事にし、しなやかな心でもって信仰の歩みを前へと進めて行きたい。かつての荒野の民は失敗した、しかしあなたがたは神の召しに応じていくように、と語る。今気づかされたなら、今神に応じなさい、と。今日この場で、心を新たに、神の徒となる志を持たせて頂こう。