ヘブル人への手紙6章

ヘブル人への手紙6章 旧約の上に成り立つ信仰
1.信仰の成熟を目指そう(6:1-8)
ヘブル人への手紙の読者は、ある程度信仰歴を重ねていながらも、人を教えるなどもっての外、、むしろ、信仰をはじめからやり直ししなければならないような人たちでした。そこでヘブル人への手紙の著者は、信仰を深め、高め、次のステップに進んでいくように促すのです。
そこでまず初歩の教えはこういうものだ、こういうものはもう終わりにしましょう、と断っていますね。6つあります。①死んだ行いからの回心、②神に対する信仰、③きよめの洗いについての教え(バプテスマのことではない)、④手を置く儀式、あるいは任職の儀式、⑤死者の復活についての教え、⑥神の裁きの教えです。少し解説しましょう。「死んだ行い」は、当時入門クラスでよく使われた信仰問答書「十二使徒の訓練」に出て来るものです。つまりそれらは「殺人、姦淫、欲望、不品行、盗み、偶像礼拝、魔術、魔法、強奪、偽証、偽善、二心、虚偽、尊大…」といったもので、こうした死んだ行いからの悔い改めは、信仰の出発点とされたわけです。神に対する信仰は、説明の必要もありませんが、信仰生活何年たっても、ここでぐらついているキリスト者も少なくはないのです。「きよめの洗い」はバプテスマのことではなく、どうやらユダヤ教から受け継いだ、当時の一部キリスト者の習慣のようです。また「手を置く儀式」は、信仰を持った時に聖霊を受けるというので良く行われた儀式のようです。「死者の復活」は、ユダヤ人の間ではパリサイ人とサドカイ人の間で意見が分かれ、議論の対象でした。しかしキリスト教信仰では、それらは議論すべきものではなく信ずべきもの、信仰の基本です。最後の「永遠のさばき」も、最初に信じて受け入れるべきことでした(創世記18:25)。重要なことは、これらは皆当時の読者にとって新しいことではなく、既に旧約聖書を通して教えられていたことです。ですからキリスト教信仰を持つということは、既に教えられてきたことについてその実質やいのちを味わうことに他ならないわけですから、そこから堕落するというのは、信仰の実質そのものを失う、手に負えない事態だ、というわけです。しかも、イエスのたとえにあるように、いばらの中に蒔かれた種のように、信仰の芽がふさがれて、もうそれ以上成長することはできない。死ぬしかない信仰だというわけです。
2.神は偽ることがない(6:9-20)
けれどもヘブルの著者は、ここで自分の言葉に耳を傾ける読者に9節「だが愛する者たち」と呼びかけて、期待を持っています。つまり、彼らの信仰の成長を確信しています。そこで信仰の基本を守り、怠けることなく、さらに忍耐をもって人々に仕え続ける(11節)、また先輩の信仰に見倣って先に進むように、と勧めます(12節)。信仰は地味なものです。けれども、地味な積み重ねをして先に進むことが大切なのです。そしてしっかり歩み続けた人には、報いが大きいと、信仰の父であるアブラハムの例を示していますね(15節)。
さらにヘブルの著者は、神はその報いを約束してくださったし、いや約束以上の誓いをしてくださった、と言います。私が子どもの頃には、何か約束すると、「指切り拳万(げんまん)嘘ついたら針千本飲ます、指切った」とよく言いあったものですが、神は、拳万、指切り、針千本を覚悟で、私たちに固い約束をしてくださった、ということでしょう。そのように人間に祝福を注ごうとし、それを約束し、誓ってくださる神がおられること事態が驚きですが、それは信じる価値あるもので、信仰の出発点です。神は偽ることがない、その神を信じる基本はもう終えて、信仰の先へと進みたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズですが、「イスラエルの偉大な大祭司アロンが神に召された場所は、どこでしょうか?①ホル山(民数20:22-29)でした。では、今日の聖書クイズを一つ。信仰の父と呼ばれるアブラハムの家族が、神の祝福の約束を受けて、神に告げられたとおりに出て行った町の名前は何でしょう?①ウル、②ハラン、③シェケム、答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
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