すでに著者は、キリストの大祭司職の卓越性に関して論じてきたが、ここで再び、その卓越性の要点をまとめている。旧約時代の祭司は、地上の幕屋で仕えたが、キリストは天の幕屋で仕えておられる(2節)。要するに、キリストは、今なお私たちのためにとりなしの働きをしている現役の大祭司である、という。私たちのために十字架におかかりになり、その大きな愛を示してくださっただけではない、今なお私たちのためにとりなしてくださっている。それは、私たちの大いなる希望である。というのも、もはや私たちはいかなる失敗も霊的破産も恐れる必要はないからである。弁護者なき私たちのために、心配し、弁護し、正義を貫き、恵みを施し、すべてを私たちの益となるように働かせてくださるお方がいるのだ。彼はいつも私たちと共にいる。私たちはあらゆることに大いに希望を抱いてよい。
8節より、著者はエレミヤの預言を引用する。かつてイスラエルの民が、エジプトの地から解放された後に結ばれた契約は、神の声に聴き従うならば、神も彼らを守り祝される、というものであった。しかしこの神の命令は、守られることはなかった。そこで、新しい契約が結ばれることが約束される。その特徴は、三つある。まず神の律法が人々の心に植え付けられること、第二に神を個人的に知るようになること、そして、最後に罪が拭い去られることである。
律法が心に植え付けられるというのは、単に律法を記憶する以上の意味がある。というのも神の律法を記憶しても、それが実行されることの保証にはならない。しかし新しい契約は、心に直接記されるのである。誰でも心にあることは実行するものである。だからそれは新しい、よりすぐれた契約になる。実際それは、どんな形でなされたのか。思い起こしてみれば、イエスの律法は、愛の律法である。神を愛し、人を愛する律法である。そしてそれは、十字架においてはっきりとどういうことなのかが印象的に示されたのである。誰の心にも、イエスの人類に対する深い愛と、父なる神の使命に生きる、神に対する愛は、深く刻まれた。愛するということは痛むことであり、忍ことであり、望ことであり、信頼することである、その律法を、私たちの思いの中に置かれ、心に書き記されたのである。
だからその、新しい契約は、個人的に神を知る機会を得させるものでもあった。私たちは主に忠実なイエスを通して、まことの神の存在を認めざるを得なかったのである。主を知れ、という言い方は不要で、明らかに、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられるのですか」と叫ばれたイエスに応答された神がおられた。神はおられるのである。「小さい者から大きい者まで」つまりすべての人が、神を個人的に認めざるを得ない状況がそこにはあった。
そして最後に、この十字架による新しい契約は、私たちの不義にあわれみをかけ、私たちの罪を思い出さない意味を持つことを教えられた。神はどんな罪をも摘発し、どんな罰をも残らず下される、さらに、昔のあれやこれやをいつまでも覚えていて責めたててくる、と思っている人も多いことだろう。お前が不幸なのは、悔い改めないからだ、正しくないからだ、だからおまえは苦しむのだ、と。そういう部分もあるだろう。神は義なるお方である。神はどんな罪も、うやむやに処理される不正なお方ではない。しかし、神は、私たちのそれらの罪の罰の一切合切を、キリストにおいて帳消しにしてくださったのである。キリストが十字架につけられたのは、キリストが私たちの罪の身代わりとしてささげられたことを意味していた。キリストが、私たちの責めの全てを負ってくださり、キリストが私たちの身代わりとなって苦しみ、私たちの身代わりとなって黄泉に下ってくださったのである。キリストの故に、神は、「私たちの不義にあわれみをかけ、私たちの罪を思い出さない」(12節)という。この十字架の偉大な真理を私たちはもっともっとよく理解しなくてはならない。そしていつまでも自分を責め続ける、あるいは、神が自分を赦してくださっていないと考えることのないようにしよう。
新しい契約の素晴らしさは、そこにある。それは印象的に示され、誰の目にも明らかであり、その意味は私たちに罪の赦しを確実に与えるものである。神は私たちに対する見方を変えてくださったのである。この事実にしっかりと立って、今日も希望と、信仰をもってあゆませていただこう。