ペテロの手紙第一1章

ペテロは、キリストに戴いた新しい名を名乗って、手紙を書き始めている。ペテロは、自分をイエスのしもべとして位置付けている。宛先の順番は、おそらくこの手紙が配達された順番を語るものだろうが、それらは、黒海の南にある四つのローマの属州(ビテニヤとポントス、アジヤ、ガラテヤ、カパドキヤ)である。ペテロは、その地域全体に散っているユダヤ人に「神に選ばれた寄留者たち」と呼びかける。彼らは選ばれた者たちであるが、能力や経歴、育ちによるのではなく、神の主権的なあわれみによって神の民とされた者たちである。また、彼らは、離散ユダヤ人であるから、地上的な意味で散っているようでありながら、実際には、霊的な意味で散らされている。つまり、国籍は天にある者でありながら、地上に仮住まいをしているに過ぎない。父なる神の予知によってそうなっていたのである。彼らが散らされ、散らされた場が敵対的な状況にあるとしても、それは既に恵みとあわれみに富んだ神が初めから予測し、計画しておられたことである。というのも、それは、キリストの血の注ぎを受け、聖められるため、つまり、彼らの中に残存している霊的な汚れである罪からいよいよ解放され(詩篇51:7)、聖さ、信仰、愛においてますますキリストに従順な者となるため、つまり永遠の完全な救いをもたらす目的があったからである(2節)。

そこでペテロは、読者が生ける望みを持つようになったことへと注意を向ける。おそらく、読者たちは、苦難の故に落胆し、重苦しい心を抱いていたのであろう。その心が癒されるために、まず天の望みを見上げて、神を賛美するようにペテロは励ましているのである。というのもそれは、ペテロ自身が経験した、喜びと確信の根拠であるからだ。ペテロは、イエスの復活によってもたらされた新しいいのちの恵みに目を留めるように語る(3節)。それは、三つの大きな祝福である。第一に、それは、天に蓄えられた朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産である(4節)。当時のパレスチナは、しばしば旱魃やイナゴの害に悩まされることがあった。そうした浸食され易い地上の資産に対比して、キリスト者が受け継ぐ天の資産は消え去ることはない。第二に、それは安全な守り(5節)である。ギリシア語のプローレオー(監視する)は、軍事用語として使われるもので、絶えざる警戒で守られていることを意味する。それは注意深く攻撃からも、逃れることもないように、見張り守られているのである。しかも、守られているのは、資産よりも、資産を受け継ぐ私たち自身である。最後に、それは現状に左右されないものである。多くの場合、人は、苦難や苦労のあることは悪いこと、不幸なことだと考える。しかし、苦労があることと幸せであることは別次元のことである。苦難や苦労があっても本当は幸せだということがある。今しばらく様々な試練の中で悲しまなければならないとしても、心に喜びがある、これが魂の救いであり、信仰を持つ者の強さである(5-9節)。キリストを信じる、というのはそういうことなのだ。

実にキリストの救いは、偉大である。そしてこの救いはまさに読者一人一人のために用意されたものであった、とペテロは語る。つまり、預言者たちが尋ね求め、調べたこの救いは、自分たちのためではなく、まさにあなたがたのためのものであった、と。そして御使いすら、その救いがもたらされた結果を見たいと願っている、と。ペテロは、こうして苦難の中にある読者が、実際には、神の最大の祝福の受取人であることを確信させているのである。それは、私たちも同じである。私たち自身も、苦難にある時にこそ、選ばれ、寄留者としてあり、さらに神の予知の中において、魂の救いを得ている者として「今ここ」に置かれていることを覚えたいものである。そして、13節からの実際的な勧めをしっかり受け止めていこう。

その要点は、あらゆる行いにおいて聖なる神のような美しさを慕いなさい、ということである。「心を引き締め」は、字義通りには、「あなたがたの腰を引き締めなさい」となる。当時の人々は、走ったり、素早く歩いたり、激しい活動をするために、長い衣の裾を引き上げ、腰の周りにまとめて結びつける習慣があった。行動の自由を妨げるような心でいてはいけない、ということである。「身を慎み」は「しらふでいる、酒を飲まないでいる」とも訳され、霊的に油断なくあることを言う(4:7、5:8)。確かに、人は、霊的な事柄よりも、学歴、経歴、財産、レクリエーション、名声、友好などに心が酔ってしまいやすい者で、注意が必要だろう。では、聖めは何を意味するか。

第一にそれはキリストへの従順である。具体的に、肉の欲望に従わないこと(14節)、その対立概念である、キリストに倣って聖なる者とされることだ(15節)。第二に、ますます神を畏れつつ歩むことである。ここでは、恐れは神の不評を買うことの恐れを意味している。神に対する恐れは、パウロも勧めているように、私たちの霊的成熟ために軽んじることができない(2コリント7:1、15、コロサイ3:22)。またその恐れは、人間的な弱さから出てくるものではなく、神の偉大な愛を覚えればこそ出てくる信頼に基づく恐れである(17節)。第三に聖められることは、兄弟愛の実践そのものを意味する。聖めは、個人的な精進ではなく、関係性の中で起こることだからである。聖めにおける成長は、クリスチャンたちの間のより深い愛となって結実するのだ。そして、聖めを達成するのは、私たちの努力によるのではなく、私たちが不断なく求める神のみことばであり、聖霊の業である(23、24節)。

 

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