2章の後半からは、具体的に人との関りにおいていかに聖く生きるかを語っている。先にペテロは、為政者(2:13-17)や主人(2:18-25)との関係をとりあげたが、ここでは、夫あるいは妻との関係をとりあげる。考え方の原則は、妻は妻の役割を、夫は夫の役割を果たすことである。つまり夫婦を夫婦として成り立たせることを意識することだ。だからたとい、神の目にかなわない夫でも、妻として相応しいあり方を心がけることである。
そして、それまで不親切で、配慮なき夫が、妻に優しくなり、愛情深い態度をとるように変えられて、まさに神の人とされるかどうかは、キリストの福音を口で語ることによるのではなく、妻のキリスト者としての日々の行為にかかっている、という。普段の日常生活ので、どれほど神を恐れる清い生き方をしているかどうかの問題である。だが多くの妻は、夫の愛情を得るために、自分の髪を編んだり、服を着飾ったりと、外面を飾ることに熱心である。飾り立てるなら、外面ではなく内面を飾ることである。妻自身が穏やかで心優しく、愛情深く敬虔な品格を持つことだ。妻がどんな時にも神に望みを抱き、神に従う時、神はその妻の姿を夫に気づかせて、夫のたましいを救いに導いてくださるだろう。
同じように、夫も夫としての役割を果たすべきである。夫は妻を自分よりも弱い器として理解し、妻への配慮を忘れてはいけない。何よりも妻と一緒に暮らすことである。つまり、妻の願い、目標、思い煩い、喜び、悲しみを感じながら生活することである。夫は努めて、妻と共に心の通う時を過ごし、妻の心の中で何が起こっているのかに注意し、妻が落ち着いて生活できるように心を配るべきだろう。そして信仰を持っているのであれば、さらに地上的な夫と妻の関係を超えて、主にある共同相続人として妻の対等性と重要性を認めていきなさいと言う。そうして初めて、互いの霊的な生活も豊かにされ、祝福されるのである。
8節以降は、他者との関係、ことに敵対的な関係の人々に対する一般的な指示があげられている。まず教会の中においては、同じ心になり、お互いに愛し合い、同情深く、謙遜であるべきこと、そして、敵対的な人物から悪を受けても祝福を返すべきことだ、という(9-12節)。というのも、クリスチャンが召されたのは、キリストの十字架愛に生き、それを世に証していくためである。神がそれを期待しているのであり、神がそれに相応しい報いも用意しておられる。実際ペテロは詩編を引用する(10-12節、詩編34篇)。神は正しく生きる人々に目を注ぎ、その祈りに耳を傾け、天の報いと同時に、現在の人生における祝福をも約束しておられる。また、敵対的な者の脅かしを一々恐れたり、心を動揺させたりしないことだ(14節)。すべての状況を支配しておられる主を覚えることだ。そして、それは危機ではなく、機会である。いつでも内なる確信について神を証できる備えをしておくことだ。
ペテロは、従うべき模範としてキリストとノアの例をあげる。それは、ノアの状況とペテロの読者たちの状況がよく似ていたからなのだろう。ノアとその家族は敵対する不信者たちに囲まれた少数者であった。またノアは邪悪な世界のただなかで正しく生きていた。そしてノアは、あざけりの中で、箱舟を造り、神がおられること、神の裁きが確かであることを証した。そしてキリストはノアを通して、彼の周りの不信者たちにみことばを宣言された。目に見えないキリストがノアとともにおられたのである。19節、「捕らわれの霊」の解釈は、そのように理解するのがよいのだろう。そしてノアは最終的にわずかな人々と共に救われた。このようにしてペテロの読者が置かれた状況を踏まえて読めば、3章後半はわかりやすい。苦難にあっては、目に見えない主との関係において従順であることが、何よりもの救いとなる。結局、あらゆる関係において、従順である、よいしもべである、ということは、神に対してそうであることに他ならない。