ペテロの手紙第一4章

敵対的な関係の中で生きるキリスト者に、続けてペテロは、キリストの模範を取り上げ、義のために喜んで苦しむことを促している(4:1-6)。その際に、意識すべき大切な四つの態度がある。

第一に、地上の残された時を、人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごしていくことである(1-3節)。というのも、罪にまみれた生き方はもう十分だからだ。クリスチャンになる以前は、自分の手足を不義の器として生きていた。私たちの目は、罪を楽しみ、私たちの手や足は罪を助長する何かのために働いていた。しかしクリスチャンになってからは、絶えず評判のよいものに目をとめていく、手と足を主の働きのためにささげていく、のである。

第二に神の前での申し開きを意識して生きることである(4-6節)。神の前に立った時にしっかり説明のつく人生を歩んでいるかどうかが大切だ。人は人をよく裁くものであるが、最後に裁くのは神である。6節は殉教者のことを言っている。ここだけ切り離して理解すると、救いにセカンドチャンスがあるような誤解を招く。しかしそうではない。死んだ人々、殉教者は、既に福音を受け入れているのだから、肉体においては裁きを受けたようなものだ。けれども霊は神の前に立ち、祝福を受けている、と理解すべきなのだろう。だから、私たちも、この世の生き方と袂を分かつならば、人間的にはこの世の試練を味わい、裁きを受けたことになる。しかし霊は神の前で生かされているのである。

このように、やがて神の前に立つ、すなわち万物の終わりを意識して生きる(7節)ところから数珠玉のような戒めが語られる。一つは心を整え、身を慎みなさい、これは眠りこけることと反対だ。目を覚まして祈るべき時に眠りこけていたペテロにすれば、特別な意味のあることばであっただろう。自らの経験の中から戒め的に語っている(マルコ14:37-40)。また互いに熱心に愛し合いなさいと言う。単に情緒的な愛ではなくて、献身的な愛が語られている。憎しみは物事を大きくし、対立を深めて行くが、愛は衝突を小さくし、対立を乗り越えさせるからである。そして最後に、残された時を、賜物を生かす機会とするように語られる。私たちにはそれぞれ霊的な賜物が与えられており、その管理者とされている。神は賜物と能力と機会を与えてくださっている。このように日々霊的な歩みを努力するなら、教会も建てあげられていくことになる。

最後に試練に驚かないで、かえって喜ぶことが勧められる(12-16)。「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と語った主の模範を覚えることだ。私たちは、AとB二つの結果になると思うことがあり、Aが自分にとっては最善である、Bにはならないで欲しいと思うようなことがあるものだ。しかし、神におゆだねする生き方をする者にとっては、AもBも神の最善だ。どっちに転んでも神は正しい者、みこころを行う者の味方である。神におゆだねするには、信仰の深さが必要である。私たちの思いを超えた、永遠の神の視野で物事をあるがままに受け止める力が無くては出来ないことだ。なお、自分の愚かさに起因するが故の苦しみと、神のみこころに生きるがゆえの苦しみには違いがある(15節)。苦しんでいることが即座に十字架の道を歩んでいる、ことにはならない。しかし苦しんでいる方が真実に近いこともある。大切なのは、やがて「生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません」という神の前での生活を日々実際に大事にしているかにある。

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