この手紙を書いたペテロは、自分の殉教が間近であることを意識している(14節)。伝統的にペテロは、ネロの迫害(AD54-68)の後期に殉教した、と考えられているので、となればこの手紙は、AD67 年頃に書かれたと考えてよいのだろう。ペテロはローマの獄中にあり、覚悟を決めて、最期の告別のことばを残そうとしたのである。
果たして、牧師として最後に何を語るか、「私が去った後いつでも、あなたがたがこれらのことを思い起こさせるようにして起きたい」(15節)ことは何か?やはり、それは、「いのちと敬虔をもたらす全てを与えてくださった神の御力」を置いて他にはない(3節)となるだろう。
命を得た以上、それは自然に育っていく。しかし敬虔に育っていくかどうかは別問題である。私たちは、敬虔を得る、つまり神の性質に与ることを約束されているが、それを私たちが自分のものにするかどうかは、「あらゆる熱意を傾ける」私たちの姿勢にかかっていることも確かである(5節)。では何を意識すべきなのか。まずは七つの品性である。
①徳(5節):基本的に目的を達成することを意味する。ナイフの目的は切ること、馬の目的は走ること、そして人間の目的は、キリストに似た者となり、神の栄光を現すことである。
②知識:「聡明さ」「実践的な知識」または「識別力」を意味するが、徳を身に着けることが前提である。
③自制:自らを制御する力である。パウロも賞を得たければ、自制し、訓練に臨む競技者のようであることを勧めている(1コリント9:24-27、ピリピ3:12-16)。
④忍耐:自制は、人生が順調に行っている時に働かせる力である。忍耐は、人生に問題があったり圧迫されたりする時に働かせる力である。自制力のない人に、忍耐もない。
⑤敬虔:単純に「神のようである」ことを意味する。ギリシア語のもとの意味は、「よい礼拝をなすこと」、つまり敬虔さは礼拝から、神との正しい関係から生じる。
⑥兄弟愛:敬虔さは、兄弟愛によってさらに磨かれる(1ヨハネ4:20)。兄弟に対する愛は、イエスのまことの弟子であり、神の子であることの明らかなしるしである。
⑦愛:クリスチャンとして成熟には、兄弟愛以上のものが必要だ。つまり犠牲的な十字架愛そのもの、神が罪人、無知な者、弱い者、敵対する者に示された愛が必要である。
「信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛」これらは、七段階に発展的に理解されやすい。信仰を身につけたら徳を身につけるというように。しかしそうではない。むしろ、ガラテヤ書に出てくる御霊の実(ガラテヤ5:22-23)のように、同時的に求められるべきもの、身につけていくべきものである。「加えなさい」と訳された語は、「豊かに備える」を意味する。そのような信仰的成長の努力のあるところに、「役に立たない者、実を結ばない者」になることはないし、躓くこともない(8節)。
これらを備えていない人は盲目である。つまり、キリスト者になった以上、どこか、キリスト者であることに磨きをかける心が必要なのである。茶道家は茶道に精進し、華道家もまた同じであるように、キリスト者も、キリスト者であることを極めなくてはならない。自分の召しと選びを確かなものとするように、いっそう励む日々の歩みが求められるところだろう。そこに主の恵みを豊かに感じることにもなるのだ。
そんなことはわかっている、とは思っていても、実際には、私たちの巡礼の道のりは果てしなく遠いことを覚えなくてはならない。私たちは信仰生活を日々深めていると思いつつ、実際にその行程の1%も進んでいない、ということがあるのではないか。
ペテロは殉教間近に、改めて自分の現実を思う時に、かつてキリストと共に、変貌山で目撃した、その威光に全くかなわぬ自分を思わずにはいられなかっただろう。「世のさらし屋ではとてもできないほどの白さ」(17、18節、マルコ9:2-8)は、単純に人間の努力で到達できるような目標ではない。信仰には精進が、あるいはそれを極める歩みが必要と言えども、それは、主に引き上げていただくのでない限り決して到達しえない目標である。信仰者が神の命を成長させ、成熟し、神の御性質にあずかることは、きわめて高い到達目標だ、と言うことだ。
だから、私たちは信仰において自己流であってはいけない。「人の私的解釈を施してはならない」とあるように、聖書が語るところを、語るままに理解し、その基準に達することを自らの歩みとしてく必要があるのだ。