ペテロの手紙第二2章

1章では、殉教を間近にしたペテロが、信仰の霊的な成熟に進むように進めていた。いのちと敬虔(3節)を深め、神のご性質に与るように、霊的な高値を目指して進むことである(4節)。牧会者は、誰よりも率先してそう行うことが正しい。

しかし、偽教師はそうではない。2章では、偽教師の問題がとりあげられる。よく読むと、ユダの手紙と非常によく似ている部分である。どちらかが贋作である、という議論もあるが、どちらが先に書かれたか議論は一致していない。一説に、コリントの教会から発した問題が、近隣の諸教会に大きな影響を与え、そこでペテロが第二の手紙を書き、ユダにその一部を送り、ユダも、直ちに自分の関心を持っている諸教会に同様の手紙を書いたとされる。

ともあれ、偽教師は、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込んでいる。いわゆる正統信仰とは似ても似つかぬ信仰を教会に持ち込んでいる、というわけである。その結果、自分たちを買い取ってくださった、つまり十字架の恵みによって救ってくださった主キリストさえも否定している、というわけだ。彼らが愛し、仕えているというキリストをまさに否定するような教えや実践をしている、ということである。

では、その特徴を見ていこう。彼らの特徴は、好色と貪欲(2、10、14、19節)にあった。2節、好色にならい、3節、貪欲であり、食い物にしている、13節、昼の内からのみ騒ぐことを楽しみと考えている、14節その目は淫行に満ちている、15節、不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従った、とあるようにそこには倫理的、道徳的な破綻があった。それは、ペテロが1章で語ったこと、いわゆるいのちと敬虔、神の御性質に与る、霊的高嶺を目指す歩みとは全く逆の生き方である。それは、まさにイエスの十字架の恵みを放縦に変えるような異端である(ユダ4)。しかも偽善的な異端ではない。人に厳しい戒めを教え、自らは陰でそれを破っているような異端ではない。むしろ、人に自由を約束するが、その自由は好むままに罪を犯す自由であった。つまり情欲の自由になる自由を彼らは、語っていたのである。パウロは、自由を肉の働く機会としてはいけない(ガラテヤ5:13)と語ったが、まさにそれを許す異端である。しかし、キリストにある恵みは、御霊によって肉から解放し、まことの霊的な自由へと至らせる恵みなのである。ペテロは警告する。こうした異端の宿命は、(2:4-12、17節)

①罪を犯した御使いは、暗闇に閉じ込められた(4節)

②ノアの時代、不敬虔な世界に洪水が引き起こされた(5節)

③ソドムとゴモラは滅ぼされた(6節)

④彼らに用意されているのは「真っ暗な闇」である(17節)

とされる。ここに、ユダの手紙と同じ表現がある。つまり、ユダの手紙との関連性が語られる所だ。地獄は火と硫黄の燃える池ではなく、真っ暗な闇と表現される。地獄はあなた以外の誰もいないところである、とペテロは警告しながら悔い改めを求めている。

私たちは「買い取られた者」である(1節)。イエス・キリストに聞き従う、しもべである。救われた、感謝で終わりではない。救われたなら救いにふさわしい実を結び、ふさわしい働きをしていく必要がある。そうでなければ、罪を犯した御使い(4節)、不敬虔な世界(5節)、ソドムとゴモラの町(6節)と同じ結末を迎えることになる。偽教師は、自由を放縦に変える人たちであり、その結果は、「もっと悪くなる」「際限なく悪くなる」ということに尽きる人たちである。一方神を信じることは、救いであり、進歩であり、前進なのである。もちろんそれは、自分の力でできることではないのだから、それこそ聖霊の業なのであり、神に求めて、神の助けを祈りながらの前進である。

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