イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。それは、これまでの8-9章で示されたイエスの権威であるが、宣教のための権威であり、組織運営のためのものではなかった(1節)。10章では、12弟子が選ばれ、神の国の宣教のための重要な原則が教えられていく。
第一に、伝道の方法について(5-15節)、後には弟子たちは、異邦人世界を含めて全世界に派遣されるようになるのだが、この段階では、「イスラエルの家の失われた羊たち」を優先とするように命じられる(6節)。それは、今の私たちからすれば、かつてキリストを信じた教会に通ったものの、今、不幸にして落伍者になっている人への宣教を優先させることに他ならない。また、8節。「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」「ただ」と訳されたことばは元々「全くの贈り物として」を意味する意訳である。つまり受け流しをせよ、ということに他ならない。伝道牧会がただということはない。「私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう」(2コリント12:15)がその真意だろう。またそれは緊急性を要する(9-10節)。主が備えてくださるものに信頼し、任せて、なすべきものである。神の働きであるなら、神が備えてくださらないはずがない。伝道者は主の備えに信頼し、その働きに専心すべきだ、ということである。そして実際には、まず、平安を祈ることから始めるようにと勧められる。そして相応しい人を訪ねるようにという。これを思う人や家を選んで教育をする。しかし拒絶するような人には、「聖なるものを犬に与えてはいけない」と戒められているように、縁なきことと思い、次の相応しい人を求めて宣教を進めることである。
そこでイエスは、迫害の問題を率直に取り上げる。つまりここから伝道者の心構え、その忍耐と勇気について(16-33節)教えていく。そこで迫害にどのように対処するか。一つは、賢くあること。具体的に、空気を読んで、自ら災いに飛び込まないことだ(17節)。「迫害されたら逃げなさい」(23節)と教えられている。真理の戦士として戦うことだけが能ではない。そして純粋であることだ。不幸にも捕らえられた時には、ずる賢く器用に立ち回ろうとせず、純真で素直に従い、主に語るべきことを委ねることだ(23節)。誠実さは誰の目にも明らかであり、主の助けがあるだろう。イエスの教育は、行動や考え方を教えるだけではない、姿勢や態度を教える。忍耐を持って伝道を大いに進めよ、ということだ。
迫害があっても、恐れることなく、積極的に伝道を進めることである。イエスは言う。弟子は師の代理である。だから、イエスが受けた同じ不評を受けることも覚悟しなければいけない(25節)。弟子と師の心は一体である。恐れることはないし、師の心はすっかりみな話せという。先に、イエスは主の祈りにおいて、私たちに「父よ」と呼ぶことを許された。それは、父と子の親密さの中に、私たちが加わってもよいことを許可するものであった。今一度、イエスは、私たちに自分の立ち位置を明確にさせる(32-39節)。私たちがイエスと父に連帯するのか、それとも、世における形ばかりのつながりを大切にするのか、どちらであるかを迫っている。イエスの弟子になるということは、神に生きることであり、神の御国の民としての旗印を明らかにすることである。福音を恥としない、決意が求められる。
最後に、伝道の目的、つまりどんな信徒を作るのかを語る(34-42節)。それは一言で言えば、「自分の十字架を負い、イエスに従う者」である。そのような歩みには誤解を受けて、親しい者、つまり家族ですら敵となってしまうこともあるだろう(35-37節)。もちろん、キリスト教は「あなたの父と母を敬え」と教えているのだから、信仰のために父や母を敵とせよということではない。孝道を重んじながらも、罪人が認めたがらぬ神を認め、神に生きる人生に何等かの衝突は避けられない。しかし、神の存在は現実のことだから、忍耐と愛を持って、自分を救うためではない他人を救うために腹をくくるなら、それなりの手ごたえのある人生を歩むことになる。つまり受け入れてくれる人もいるだろう。それは神を受け入れることであり、その人も同じ報いを受けることになる。神の恵みの福音を、忍耐を持って、いのちをささげる覚悟で、必要に応じて語る者でありたい。