イエスと12弟子たちの秘密裡の会合は終わった(10章)。今や弟子たちはイエスの心を自分たちの心とし共に宣教へと出ていくのである。メシヤとしてご自身を現され、その主権を示したイエスに対する様々な反応が綴られていく。大まかにこの反応は、16:13-20のペテロの信仰告白にまで続くと考えてよいだろう。新しい区分として読むことができる。
まずバプテスマのヨハネ。彼は、死海東岸のマケルスの獄吏に閉じ込められていた。国主ヘロデ・アンティパスとヘロデヤの結婚を不法であるとし、様々な悪事を糾弾したからである。神の前に正しいことをして彼は、不正な力にねじ伏せられていた。その彼が、自分の弟子たちを遣わし、イエスの正体について確認している(3節)。素直に読めば、ここはそう読めてしまう部分である。
だが、かつて彼は、イエスを「神の小羊」として指し示し、この方こそ、神に遣わされた神の救い主であると皆に紹介した。そしてバプテスマを授ける中で「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という天来の声をイエスとともに耳にした人物である。ヨハネの信仰がぐらついたと理解すべきなのか。いや、ここは疑問文ではなく力強い肯定・断定として読むべきところなのだろう。つまり、「おいでになるはずの方は、あなたですかそれとも、別の方を待つべきでしょうか。(いやあなたこそそうです)」というわけである。ヨハネは獄吏にありながら、イエスの働きを認め、その働きの祝福を、弟子たちを通して伝えているのである。だからその後のイエスのことばは、エールを返している、と読むことができる。互いに互いの働きを認め、働きの継承を確認しあっている、というわけだ。
だからイエスは、ヨハネの働きを評価し、ヨハネを偉大な預言者として認めた。彼は単に時の声となった預言者ではない。マラキ3:1で預言された、あの「使者」である。つまりヨハネはイエスの先導者、きたるべきエリヤなのだ(14節)。神のご計画の中では最も重要な位置に配置された預言者である(11節)。
こうしてイエスと弟子たちも一体であったように、イエスとヨハネも一体なのであり、連続している。そのイエスとヨハネに対する反応が語られる(16-19節)。イエスやヨハネに対して、彼らは市場に座っているあまのじゃくな子どものように受け入れようとしなかった。コラジン、ベツサイダ、カペナウムは、当時、豪華な会堂のあった豊かな町で知られた土地であった。ベツサイダは、ピリポ、アンデレ、ペテロの出身地であったが、その土地の人々は、イエスの力ある業に直接触れていながら、イエスのメッセージに耳を貸そうとはしなかった。
イエスを誤解し、拒否する者たちが多くいる中で、イエスの使命を正しく理解し、受け入れる者たちがあることが指摘される(25節)。「賢い者や知恵のある者」ではなく、「幼子」たちである。前者は宗教的な指導者の事を言うのであろう。後者は、卑しく学問のない単純な人たちである。しかしそれは、人間の側の努力や感性によるものではなく、神の一方的なあわれみとして起こる出来事でもある。「子が父を知らせようと心に定めた人」とあるように、神の子とされる恵みは神の賜物として、人々が全く予期せぬ人たちに、神のみこころによって与えられる。
28-30節、最後の招きのことばは、旧約外典ベン・シラ(51:23-27、6:24-31)の招きのことばを反映している、と言われる。イエスもその書を知っていたというわけである。とすればイエスは、それをもじってご自分のこととして語り、ご自分の業として語った、というのは大いにありうる。当時の教養の範囲であればそうなのだと思われるが、もちろん、イエスは、ご自分の権威をもってこれを語られたことに間違いはない。イエスは「来なさい」と言い「休ませてあげる」と語った。そして「学びなさい」そうすれば「安らぎを得る」と言った。イエスのもとに来て、心通うよき時を持つのである。ここにまさに聖書通読の奥義がある。聖書をただ知的に読むのではない、キリストのマインドを感じ、わかろうとするように、読んでいく時に、あるいはその足元で耳を傾け、教えを乞うならば、そこにたましいの安らぎがあり、祝福がある。神を信じることは、一見厳しい覚悟をさせられるようであるが(10章)、それは、本質的に神の中に安らぐ人生なのだ。