主権を示したイエスに対する第二の反応として、パリサイ人のそれがあげられる。既に11:28-29では、イエスのくびきは負いやすいと言われたが、パリサイ人のそれは逆である。それが、二つの安息日物語によって具体的に教えられる。
まず、ある安息日に、イエスの弟子たちが空腹であったので、通りがかりの麦畑の穂を摘み、手でもみながら食べていたことが問題となった(1-8節)。盗んだというのではない、安息日にしてはならないことをした、という宗教的な罪が問題にされた。ユダヤ人にとって安息日は、単なる祝日でも、儀礼的な日でもなかった。それは、神が創造者であることを覚え、神とイスラエルが特別な契約関係にあることを確認し、イスラエルが神の聖めと祝福に与る特別な日であった。しかし、パリサイ人は、安息日を特別な儀礼的な日とし、その守り方についての細則を定め、それを忠義に行うことをよしとしたのである。イエスは、緊急措置として臨在のパンを食したダビデ(4節)と安息日に合法的に宮仕えする祭司(5節)の例をあげて、弟子の立場を弁護したように見える。しかしここでの論点は、旧約律法やパリサイ人の規定に違反したことにあるのではない。むしろ問題になったのは、「イエス」の弟子たちが行ったことであり、そもそも「イエス」とは何者か、である。「イエス」がダビデに匹敵するのか、「イエス」の弟子たちが公職の祭司に相当するのか、である。そこがわかれば、イエスがご自身を宮よりも大いなるもの、安息日の主であると主張することのつながりが見えて来る。つまり、宮は神の臨在される安息の場、しかしその宮よりも大いなる者が今ここにいる。イエスは、ご自分が、一人の律法学者ではなく神ご自身であることを示されているのであり、さらには、イエスの弟子たちは、そのイエスを認めて従っている者たちであり、安息日ごとに形ばかりのいけにえをささげるのではなく、神に真実の愛をささげるまことの祭司であると語っている。だから、ホセア6:6のことばを理解し、弟子たちを尊敬したに違いない、というわけだ(7節)。そして、イエスは、ご自分が安息日の主であられることを明言されるのである。
パリサイ人との次の衝突は、片手のなえた人のいやしであった(9-21節)。ユダヤ人の掟集ともいうべきミシュナーによれば、瀕死の人だけが安息日でも手当を許されていた。しかしこの人は、手が麻痺した人、いわゆる病気ではなく障害を抱えた人である。となればわざわざ安息に癒されなくてもよい人である。そこでパリサイ人はイエスを罠にはめるためにこの人を利用したというわけである。イエスは、再びホセア6:6の引用を敷衍している。安息日にはよいことをすべきである、と。しかし、ここでの争点も、安息日規定を守るか否かではない。むしろ安息日の主を、どのように迎えるか、ということで、パリサイ人は、イエスを決定的に拒絶した、と言うことに過ぎない。パリサイ人はイエスを滅ぼそうと考えるようになった(14節)。
そう考えると、マタイが旧約聖書イザヤ書から引用し(18-21節)、イエスを約束のメシヤと確認すること、群衆に「もしかするとこの人がダビデの子なのではないだろうか」(23節)と言わしめたことの意味が理解できる。先に11章でヨハネは、イエスの正体を認めた。ここ12章では、パリサイ人は徹底してそのヨハネの評価を却下している、と言えるだろう。
22節からは、パリサイ人のイエスの働きに対する解釈が語られている。すでにイエスは、多くの人々を癒されていた。ここでも悪霊に憑かれた人を癒しているのだが、パリサイ人は、イエスを悪霊のかしらとみなしたのである。イエスは二つの点を指摘する。悪霊が組織や秩序を持ち、なおかつ仲間割れすることがあるだろうか。だから一歩譲って自分がベルゼブルによって悪霊を追い出したとするなら、今あなたがたがしている悪霊の追い出しは誰によってなされているのか、というわけである。イエスは明言する。私は神の御霊によって悪霊を追い出し、それは神の国が来ている証拠である、と。そして、イエスにおいて神の御霊の働きを認めないならば、それは許されない神に対する冒涜であるという。パリサイ人の軽率なことばに、イエスはそれが根のある言葉であると指摘する(34節)。
38節からいよいよ、表面的な安息日議論を超えて、核心的な議論に入っている。つまり、律法学者やパリサイ人は、イエスがメシヤであることの「しるし」を求めているのである。そこでイエスは、自分が、宮よりも(6節)、預言者よりも(41節)、王よりも(42節)勝ることを明言する。実に大胆な発言である。この発言をほぼ狂人のものとみなすか、それとも、まことの神のものとみなすか、まさに決断を迫られるところなのだろう。イエスは、それを空き家の例として、語られる。安息日の主、まことの神を心の中心に向かえることを勧めているのである(43-45節)。そしてイエスを主として迎えた者たちがまことの神の家族というべきものたちなのである(46-50節)。