マタイの福音書13章

 バプテスマのヨハネの反応(11章)、パリサイ人の反応(12:1-45)、イエスの家族の反応(12:46-50)、そして13章は、後半で、イエスの郷里の人々の反応が語られている。前半は御国についてのたとえがまとめられている箇所である。全部で8つのたとえがあり、その内の3つに解説がつけられている。全体の構成からすれば、山上の説教(5-7章)、宣教の教え(10章)、そしてこの御国の教え(13章)となるイエスの大きな説教集の三番目にあたる。しかも、この章では、語る対象が区別されている。種まきのたとえは「大勢の群集」に向かって語られたが、その解き明かしは弟子たちにのみ語られた。また続くたとえも「群衆」に向かって語られたが、その解説と残りのたとえは、群衆と別れて家に入り、弟子たちにのみ語られている。イエスは、ここで明らかにただの聴衆と弟子を区別している。
まず、種まきのたとえ。蒔き方は同じで、四種類の土壌に落ちた結果が違うことに注目させられる。最初に道ばたに落ちた種。それは、踏み固められた道のように堅い心、みことばを悟らない人をたとえている。土の薄い岩地に落ちた種。それは、みことばを喜んで受け入れても、土が浅いため、根が育たず困難や迫害が起ると、すぐにつまずいてしまう人をたとえている。茨の中に落ちた種。肉と霊の相克の心を象徴し、結果的に肉の思いが勝って霊の実を結ぶことができない人のことを言う。良い地に落ちた種は、みことばを聞いて悟る心をたとえる。大切なのは、このたとえは、12章最後のイエスの家族の応答につながっていることだ。イエスのまことの家族は、「父のみこころを行う者」つまり正しい心でイエスのことばに耳を傾け、それを行おうとする人である。イエスのことばには人それぞれが応答する、しかし、正しい応答をし、豊かな実を結ぶ人こそ、神の家族である。たとえで語られた説き明かしまで求め、イエスのことばに耳を傾けた弟子たちは、まさに神の家族であった。
続いてイエスは、成長をテーマとする3つのたとえを語られる。毒麦のたとえ(24-30)、からし種のたとえ(31-32)、パン種のたとえ(33節)である。毒麦のたとえは、しばしば、「畑」を「教会」として理解されることが多い。しかしイエスの時代にはまだそのような状況はなかった。ここは「世界」として理解すべきところだろう。世界中に主の福音の種が蒔かれ主の民が起こされていくのではあるが、真の主の民が区別され明らかにされるのは、神の御国が完成する時である。からし種のたとえにしても、パン種にしても、主の働きは小さく始まり大きく完成することを伝えている。イエスの働きは、いきなりパリサイ人に反対されることになり、その始まりはおぼつかなくすら見えたかもしれないが、また、どれほど大きな反対や障害にあおうとも、その完成は確実であることを伝えている。興味深いことにこれらのたとえは皆11章以降の人々の反応と結びついて語られていることだ。イエスの働きを認めてエールを送ったヨハネの反応、イエスとイエスの弟子を問題にし、拒絶するパリサイ人の反応、そして、どっちつかずと困惑の中にいるイエスの家族の反応、それらに結び付いている内容である。
さてイエスは群衆と別れて家に入られると、弟子たちに、毒麦のたとえを解説し、さらなる3つのたとえを教えられる。第一に宝のたとえ(44節)。天の御国を見つける喜びは素晴らしい。弟子に犠牲感はない。むしろ利己的ともいうべき喜びから、持ち物を全部売り払い、主に従うのである。犠牲感に囚われた心は、イエスの弟子のそれではない。真珠のたとえ(45-46)も同じ、動機付けを語っている。第3の網のたとえ(47-50)は、毒麦のたとえの結論(49-50)を繰り返すものである。網は、選り分けのために用いるものであろう。終末的なたとえでもあり、「そのとき、あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる」(マラキ3:18)と語るマラキの諭にもつながる。イエスの教えは決して新しいものではない。それは旧約の完成なのである。
最後の51-53は、結論となるたとえであり、要点は、イエスと共に家に入り、たとえの意味を教えられ、理解を深めた弟子たちは、御国学についての学位を取った学者のような者なのだから、これを、他の人々に教えるように、ということである。聖書は読んでわかった面白いで終わるものではない。聖霊の働きによって真にその意味を悟らされた者は、これを語らずにはいられないものだ。その神の無尽蔵の恵みの素晴らしさの故に。キリスト者として歩むことは、よい品性が養われるだけではなく、主のみ教えを喜び、それを分かち合い、実を結ぶ人生を歩むことを意味するのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です