マタイの福音書16章

12章ではパリサイ人、15章ではパリサイ人と律法学者、ここでは、パリサイ人とサドカイ人がイエスに応じている。この両者は、本来ありえない組み合わせで、イエスを罠にかけるための奇妙な同盟と思われるものだ。実際、既に彼らは12:38においてもメシヤの証拠である「天からのしるし」を求めている。つまりイエスに対する敵対は、より強固に、そして頑迷になった、ということだ。実際サドカイ人は、政治的な集団であり、思想的にはリベラルで、奇跡を信じることはなかった。そんな彼らが、しるしを求めている。
イエスは先と同様に「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない(4節)」と同様に答えておられるが、ここではさらに、空模様の見分け方を知っていながら、時のしるしを見分けられない彼らの問題点を率直に指摘している。イエスの現れそのものが、新しい時代のしるしであり、天の御国がまさに近づいたことの空模様であるが、彼らはそれに気づこうとしない。イエスにおいて神のみこころはすべての人に明らかに示され、イエスのことばに耳を傾けるならば、時が近づいていることはわかるはずなのに。人間は、空模様を見分け、景気変動すら見極める知恵を持つ。しかし、霊的な真理については、全くそれを見抜く力がない。そこに人間の霊的な暗さがある。
イエスは彼らを残して立ち去った。そして弟子たちには彼らの教えには注意せよと教える。それは、この世で生きるための教えで、永遠のいのちを見いだす教えではないから、ということなのだろう。パン種は、少しでもあれば、粉の塊全体を膨らませる。だからそういう考え方には、よくよく注意し、一欠けらも持ち込まないように、ということだろう。では、そのパン種とは何のか。パリサイ人たちとサドカイ人共通の教え、と言えば、もはや、イエスを認めまい、抹殺しようとする考え方に他ならない。イエスを抜きにしたキリスト教はありえない。しかし、イエス不在の異端的な異教はいくらでもあるのが現実だ。それは現代でも同じである。キリスト教信仰と実践におけるイエス中心性を再確認したいところである。
 ではそこまで言う、イエスは一体何物なのか、ということになるが、イエスは、弟子たちに直截に問いかけている。すでにイエスはご自分が、地上のあらゆる祭司よりも、王よりも、預言者よりも権威のある者であると語っている(12:6、41、42)。このような発言をどう捉えるのか、私たちは結論を出さざるを得ない。当時の人々はイエスを、バプテスマのヨハネの生まれ変わり、旧約の偉大な預言者エリヤやエレミヤの再来、と見た。それは、イエスを何らかの意味で、メシヤの先駆者的存在と考えた、しかしメシヤそのものとは考えなかったことを意味する。そういう中で、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」(16節)と、イエスが来たるべきメシヤであり、また神であることをはっきりと認める告白をした。イエスの語ることは単に正しい、ためになる、役立つという以上に、人に永遠のいのちを与える神のことばである、という。
 イエスは、そのような告白がペテロ自身から出たことではなく、神の聖霊の働きによるものである、と指摘する。大切な点である。しばしば信仰を持つことは、商品を選ぶのと同じで、キリスト教が他の宗教よりもよいと自分で思ったから、それを選んだ、と考えている人がいる。しかしそれは大きな勘違いである。もし神が現臨しておられるとしたら、選ぶのは神であって、私たちではない。私たちはただ神のあわれみのゆえに、神の臨在に目を開かされ、気づかされたに過ぎない。神が私たちを哀れんで選んでくださった、という事実をわからなくてはいけない。
そしてそのような神の臨在、神の力、神のあわれみの上に、キリストを主と告白する信仰の群れ、つまり教会が建てあげられるならば、それは、ハデスの門も打ち勝てない存在となる。ハデス、簡単に地獄と考えてもよいだろう。地獄の門をくぐったら、まずこの世に戻ることはない。それは死者を飲み込んだら二度とはき出すことのない固く閉じられた門である。しかし、神のいのちの力はその固さよりも強いということだ。教会にはそれほどの強さ、いのちがある、ということだ。というのも、キリストに一切の権威があり、支配があるからだ。地上の教会は、その権威を委ねられている。教会は地にあって神の国のインパクトを及ぼす機関なのである。
このペテロの告白後、イエスはご自分が受ける苦難について語り始められた。イエスの栄光は、十字架を担うことによって達成されるということである。弟子たちはまだその意味を理解できないでいた。それが分かったのは、イエスが実際に、十字架にかかり、予告したとおりに復活の主とお会いした時である。人間の理解力の限界があった。ともあれ、イエスは、イエスの弟子であろうとするならば、自分の足跡に従うように、と語る。イエスの真の弟子は、どうあるべきかを語る。イエスに良いことを求める人は多い。日本人の信仰は、基本的にご利益主義、現世主義、幸福主義であるという。キリスト教信仰をもっても、その本質はなかなか変わらない。だから祈願や感謝を生活の基本として生きるキリスト者は多いが、悔い改めや神のみことばへの従順、献身に生活の基本を置くキリスト者は極めて少ない。ただイエスの足跡に従う者が少ないのは日本人ばかりではない。イエスは、ご自分に従う道には、報いがあると語る。この予告は、ダニエル7:13-14の幻に基づいて語られている。それは、復活したイエスが、神の右の座に着いて、裁き主となる時に実現するものであり、一人一人の地上で絵の告白に応じて、イエスが右と左に、救いと滅びに人類を分けられることを語っている。既に、イエスの十字架と復活は実現し、その後2000年の歴史的経緯の中で、キリスト教会は全世界に建てられ、イエスを主と告白する信仰が証されている。となればこのイエスの終末的予告も必ずしや、その通りになる時が来るだろう。苦難の先に神の栄光のご計画がある。弟子は師に優ることはない。だが喜んで師と同じ道を進む者でありたい。

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