最初に書かれているのは、変貌山と呼ばれる出来事である。これがどこの山であったのかは、具体的にはわかっていない。ペテロにとってこの出来事がいかにその信仰に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くない。それは単に奇跡的な体験をしたという以上に、イエスのまことの神の子の姿に触れる経験であった。変貌とは言われるが、神であるのに神の在り方を捨てて賎しい人の子となられたことそのものが変貌そのものであり、逆にここではイエスの本来の姿が解放されている、と理解すべきなのだろう。そして、ペテロの通訳者であるマルコは、「その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」と(9:3)白さに注目している。またペテロは罪からの聖めを勧めて、その根拠に、自分がこの変貌の出来事の目撃者であることを告げている(1ペテロ1:16)。つまりペテロは、神が人を招いておられるご自身の聖さの素晴らしさを可視的なイメージではっきりと理解したのであった。聖さのイメージは人それぞれであっても、ペテロは、天来の聖さのイメージを与えられていた。そういう意味では、パウロも神の光を目撃して、その光の体験によってイエスの弟子になった者である(使徒22:6)。クリスチャンになる、ということは、神の聖さに出会うことが基本であり、天来の聖さに引かれ、導かれて人生を歩むことに他ならない。
またこの出来事は、天上の頂上会議というべきものでもある。ルカによれば、彼らが話し合っていたのは、「エルサレムで遂げようとしておられる最期の出来事」について、いわゆる十字架の苦難のことである。しかし考えてみれば、一体誰がそれと見て、モーセとエリヤと判断できるのだろうか。まだ写真があった時代でもない。モーセやエリヤの顔がどんなであったか、誰にも想像がつかない。となれば、これが事実であったとしてもその象徴的な意味は、イエスに対する敵対があらわになった状況で、イエスはそれを受けて立つことを旧約の救済史の流れの中で決意なさった、ということに他ならないのだろう。イエスの十字架は、アブラハム契約、シナイ契約で語られた、まことの神の民の贖いの完成である、ということだ。
そういうわけで17章は、イエスがモーセに重ねられて理解されるところである。というのも、モーセが山から下りてきた時に、イスラエルの背教に直面した(出エジプト32章)のであるが、同じようにイエスは、弟子たちの不信仰に直面するのである(17節)。この手の問題は、弟子たちに取り扱えないようなものではなかった(10:1)。にもかかわらず、彼らは不信仰の故に何もできずにいた。しかも彼らの不信仰は世相をそのまま映し出していた、とされる。クリスチャンになることは、神の力に生きる人生である。信じる対象、信頼を置く方が、天地万物の創造主であるならば、そこにはあらゆる可能性がある。「山を動かす」はことわざ的表現であり、不可能性を可能にすることを意味する。もちろん信仰を持てば願ったことは何でもなる、というのではなく、神のみこころにそって、あれがなり、これがなるという世界なのだが、信仰を持つ者には、無限の可能性がある。事実信仰は単に神がおられること、神が何かしてくださることへの知的な同意ではない。それは、生きて働かれる神を実際に信頼することであり、神の御力を味わい知る人生を歩むことである。不可能を可能にするのは神の力そのものであり、私たちの信仰の量ではない。たとえわずかな信仰ですら、神の偉大な力により、山は動くのである。
最後に、宮の納入金は、神殿での礼拝を維持するためにユダヤ人の成人男性によって支払われるものであった。それは、ローマの税金とは区別され、愛国心からささげられるものであった。ともあれこのエピソードは、これまでの信仰のテーマとは随分落差がある。あまりにも世俗的な事象についてマタイは触れている。しかし、大事な点である。つまり、天地万物の創造主を信じることは超常識的に生きることであるが、非常識になることではないということだ。イエスはこの世をお造りになった神の子なのだからこの世に対して何の義務もない。だが、それは信仰のお話であって、信仰のない人には理解できないことである。イエスはそんなご自分の価値観をこの世に押し付けることはなさらなかった。信仰者はこの世を超越した価値観を持っていても、この世において社会常識として求められるところがあれば、きっちりとそれに応えて生きていく必要がある。しっかりこの世の人たちと当たり前の対話をしながら、この世を超えた神の聖さを証し、力を証していくことが求められているのだ。