マタイの福音書19章

イエスは、「話しを終えられると」、ガリラヤを去ってユダヤ地方に行かれた、とある。内容段落を区切る、マタイに特徴のある言葉が、また出て来る(3:53、7:28、11:1、19:1)。しかしここからはいよいよ、エルサレムを目指し、受難物語へと続く最後の区分となる。そして、既にエルサレムへは何度か訪問しているはずであるが、マタイは、最後の一度の訪問のみを記録している。

ともあれ、ここでマタイが記録するのは一つには離婚と結婚についての教え(3-12節)である。すでにそれは山上の説教でも律法学者の解釈を修正する例の一つとして取り上げられており、そこでイエスが「淫らな行い以外の理由」で離別してはならない(5:31-32)と語ったイエスの解釈について立ち入るものとなっている。つまり離婚の理由を姦淫や不品行と狭く捉える少数派のシャンマイ学派と妻を好まなくなったことも含め、どんな小さな言葉や事柄でもよいと考えた多数派のヒレル学派に当時の解釈は分かれていて、イエスは既にシャンマイ学派的な発言をしたのに対して、敢えてヒレル学派的な立場「何か理由があれば」が間違っているのかどうか、と問われているわけである。だからこの質問に答えることは、当時自由に離婚していた大衆や、多勢の律法学者やパリサイ人、さらに先にヨハネを殺したヘロデ・アンティパスを敵に回す、事件性を予測するものであった。これに対して、イエスは、結婚の本来の意義を語ることで答えている。それは、単なる生活の手段でも、社会的な儀礼でもなく、一体になることだ、と。子は親の分身と言われる以上に、夫と妻は「一体」である。それは、切り離すことのできない神に定められた関係であり、離婚によって破られるべきものではない、と言う。ではなぜモーセは離縁を許したのか。それに対して、結婚は一体であればこそ、有機的な生きた関係でなければならない。形ばかりの心通わぬ結婚という牢獄に押し込められた妻を救い出すためには、再婚の自由を離婚状で保障せざるを得なかったのだ、という。弟子たちは、そんな厳しい約束に関るくらいなら結婚しない方がましであると答えている。そこに当時のユダヤ人大衆の結婚についての感覚が象徴的に語られているようでもあるが、結婚も、独身もみな神の導きであると語っている点は留意すべきことだろう。そしておそらく当時のユダヤ人や律法学者に欠けていたのは、こうした物事の本質的な考え方である。イエスはそこを彼らの際どい質問を受けながら明確にされた、と言えるだろう。

次に、マタイは、子供たちへの祝福の祈り(13-15節)のエピソードを取り上げる。当時ユダヤでは、贖いの日の前夜に、子供たちを長老たちのところへ連れて行って、祝福の祈りをしてもらうのが習慣であった。おそらくこの習慣に関連したエピソードであったのだろう。となれば、弟子たちが反対したのは、人々がイエスを普通の長老と同じように考えることに対してであり、子供たちが馴れ馴れしくイエスに近づいたことではない。しかしイエスは、愛情深く、彼らの求めに応じた。イエスは、ご自分がメシヤであり、長老ではないと拘られるようなお方ではなかった。むしろご自分が本質的に祝福を命じられるお方であることを心得ておられた。

最後に富める青年のエピソード(16-30節)。マタイだけが彼が青年であったと伝えているが、彼は「永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたらよいのか」(16節)に拘っていた。それは、何か決定的な特定の行為を想定していたのであろう。しかしイエスは、良い方はただおひとり。つまり善は、この神に照らして判断されるのであり、私たちが考える良い行為ではなく、神が示される善、すなわち神の戒めを守ることが、永遠の命に入ることであると教えられる。青年は、そんなことはわかっている、と言わんばかりである(20節)。実際、彼は十戒については表面的であれ守り切っていることを自負していた。しかしそこをイエスは問題にされた。十戒を守るというのは、そんな簡単なことではない。多くの人は守っているつもりになっているだけなのである。善人ぶっているだけなのである。十戒を守るというのは、神のことばに生きること、神と一つ心になって、神のしもべとして生き抜くことであり、この世に執着した自己中心の人間になせる業ではないのである。信仰は、形式ではない。神に対する内面的な服従であり信頼である。

だからこのエピソードには、実に興味深い言葉の言いかえがある。青年が「永遠のいのちを得る」と言ったことをイエスは「天の御国に入る」ことと言いかえた。そして弟子たちはそれを「救われること」と言い換えている。つまりこれら三つのことばは同じことを意味している。永遠のいのちを得ることも、天の御国に入ることも、救われることも同じである。そしてこれは不可能だ、という弟子たちの驚きが書き留められている。大切な点だ。人には、できないことが神にはできる。つまり、私たちが全ての執着を捨て去ることができるとしたら、それは、神が心に働いてくださるからである。正しい判断を下し、正しい行動へと出ていくことができるように、神が私たちの心に働き、その心に奇跡を起こしてくださることが起こるからである。まことのクリスチャンの人生は、まさに神の力を受ける人生である。神の力によって心が解放され、思いが聖められ、正しい歩みが備えられるものである。今日も、神の力が私たちの人生に働くことを祈ることとしよう。

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