マタイの福音書20章

20章の労務者のたとえは、マタイだけが記録するものである。単純に読めば、このたとえは、神の気前のよさを語っている、と理解される。しかし、注目すべきことに、たとえの前後に、「ただ先の者があとになり、あとの者が先になることが多い(19:30、20:16)」と、言い回しの順序を変えた同じようなことばが繰り返されている。つまりこのたとえは、19章のペテロの質問に対する「補足的説明」として書かれている。

そこで19章に戻って、ペテロが何を問題にしたのか考えてみると、それは自分の持っているものを捨てきれなかったある金持ちの青年について、ペテロ自身は、何もかも捨てて主にお従いしてきている、そういう自分は、「何がいただけるでしょうか」ということだった。ある意味で、金持ちの青年も、ペテロを初めとする12弟子も、より深い献身を求められたわけであり、それだけささげ切った人生はどんな報いを受けるのか、という関心で、いかにも人間的な損得勘定の働いた質問である。そこでイエスは、この19章において、ご自身のために人生を捨てて従ってきた者は、幾倍も受ける、ペテロのように後から来た者でも先に扱われる、ということが言われていた。続く20章の労務者のたとえでも、ペテロはやはり「最後の連中」として数えられている。仕事も終わるような時間に、後から来た者は、大した報いもないだろうと期待もしないでいたのだが、父なる神は気前よく、先から来た者と同じ報いを、雇用契約通りに提供したのである。だから、イエスは、神の気前の良さを根拠に、ペテロの質問に対して二度、確約したことになる。イエスのために捨てた者は、たとえ、後から加わった者であれ、神の祝福を必ず受けるのだ。それは、今の私たちに対するメッセージでもある。神にすべてをささげきった者は、やはりそれなりの報いを受ける。見かけは「最後の連中」と思われようと、神に人生をささげきって生きることは、その人の内面的な応答の問題であり、神はその応答を見ておられ、応じられるのである。

さて17節、イエスは、ご自分が十字架にかかることを予告される。これで3度目になる(16:21、17:22)。先の二回では、イエスの予告に続いて弟子たちの否定的な反応が描かれていた。三度目は積極的な反応のようであるが、世俗的でもある。彼らの頭に、イエスがこれから直面する試練のことなど毛頭なかったのだろう、彼らは自分たちのこれからの地位について問題にした。イエスが栄光を受ける時には、イエスに並んで座ることを求めたのである。注目したいのは、イエスが解説する「先頭に立ちたいと思う者は」(27節)のことばからすれば、マタイは意図的に労務者のたとえに続けて書いたようでもある。つまり先の者になりたいと思うなら、「最後の連中」に徹しなさい、しもべの身分に甘んじよ、という理解を得させようとしているのだろう。

大切なのは、自分がどのようなところから救い出されたか、を覚えることではないか。私たちは神の恵みによって救いを与えられている。神の報酬など得られようはずのない「最後の連中」であったにもかかわらず、神の大いなる気前の良さによって今も、これからの永遠の人生も約束されている。今私のものと主張しうるものは何一つない、神に命を拾われた奴隷としての自分自身を謙虚に受け止めるならば、まさに「仕え」「自分のいのち」を与え尽くす、献身の歩みもできるのだ。こうしてイエスとともに人の先に立ちたいと思う者は、しもべになりなさい、ではなく、しもべになろうと素直に思うようになるのである。

29節からのふたりの盲人の物語は、ペレヤ地方での伝道の締めくくりとなる。エルサレムに至るまでの活動は、神によるいやしの奇跡によって結ばれるのであるが、それは、メシヤの性質を象徴的にまとめている。つまりイエスの活動の中心は、「あわれみ」であり、かわいそうに思うイエスの心にあった。既に述べたように、神の救いの基準は、神の気前の良さにある。私たちの善行の量でも質でもない。イエスの行動の基準も、イエスのあわれみのこころにある。すべては、神のあわれみが示されるために、神の栄光が明らかにされるためである。先の弟子たちの求めからの続きで読めば、ここは、何を神に求めるべきかを教えているとも言える。主の栄光のもとに遜り、神の哀れみが豊かに人生に下されるように、神の恵みに満ちた人生であることを、求めていきたいものである。

 

 

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