マタイの福音書21章

この21章からイエスの最期の1週間の記録となる。イエスの弟子訓練の山場を越え、いよいよ、イエスは、十字架の贖いという最期の大仕事へと向かっていく。そこでマタイは、イエスが公生涯の間に何度かエルサレムを訪問しているにも関わらず、最後の訪問のみを記録し、これまでの説教集、説話集から、一挙に受難物語へ進んでいく。
しかも、エルサレムに入場したのは、イエスと弟子たちばかりではない。何千人ものガリラヤからの巡礼者が同じ経路を通って連れ添っていた。マタイは、イエスがユダヤ人の王として入場されたその様子を実に、印象的に描いている。もちろん、彼の目的は、ユダヤ人読者に、イエスが旧約(ゼカリヤ書9:9)で預言されたメシヤであることをわかってもらうことにあった(4節)。
ともあれ群衆は、自分たちの上着を道に敷き、また他の者たちは木の枝を道に敷き詰め、イエスのエルサレム入場をまるでメシヤとして認めるかのように迎えている。彼らは「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に」(9節)と叫んだ。当時のエルサレムの町は、それほど大きなものではなかったから、都中が、ある意味で騒然とした雰囲気になったことだろう。
続いて宮きよめの事件が起こる。イエスは、神殿に並んでいた出店をひっくり返し始めた、というわけだ。これまでのイエスは、教え説く者でしたが、ここではもはや真理のために戦う者である。ただイエスは、単に宮が金儲けの場にされている状況を叱責されているのではない。イエスの怒りは商人ではなく、神殿のそのような状況を生み出した当局者に向けられている。形骸化し、偽りに満ちた礼拝をもたらした人々に向けられているのだ。イエスが何に怒りを向けておられるのかが、わかれば、続くいちじくのエピソードも正しく理解できる。
不毛の祭儀場と化した神殿は、実りなきいちじくそのものである。エルサレム入城が本来預言の成就であるというのなら、ユダヤ人はこぞって、主を迎えるべきだったのだろう。自分たちの粗末な上着や木の枝などではなく、それこそ上等な赤い絨毯を敷き詰め、歓声をもって迎えるべきところだった。王も宗教家も皆が揃って威儀を正して迎えるのが本当なのだろう。しかしそうではなかった。彼らは、預言者たちのことばに悟ることができず、いや教えられていても信仰を持って受け止めることができずにいた。それは、いちじくの木にたとえていえば、実をならせるべき時に「葉のほかは何もない」状況に等しいものである。神に愛されたエルサレムには、「祈り」もメシヤを待ち望む「信仰」もなかったのだ。むしろそこには、「何の権威によって、これらのことをしておられるのか。だれがあなたにその権威を授けたのか」(24節)という敵対心があるだけであった。
21節、改めてイエスの権威が主張される。しかし、最も聖書をよく理解しているはずの祭司長、長老たちも、その権威を認めようとしない。続く、ぶどう園のふたりの息子のたとえ(28-32節)、そして、旅に出かけたぶどう園の主人のたとえ(33-41節)は、いずれも、神が旧約の歴史の中で繰り返し、神の民に悔い改めの機会を与えられてきたことを示している。しかし神の民は、悔い改めるどころか、悔い改めを促す預言者たちに逆らい、ないがしろにし、殺してしまうほどに積極的に反抗したのである。
今日、私たちが考えたいことは、信仰を働かせることです。21節「もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に入れ」と言えば、そのとおりになるのです」振り返ってみれば、イエスは、エルサレムに来るまで、弟子たちに信仰を働かせることを教え続けられてきている。13章のたとえ話に要約されることは、信仰の価値に気づいて、イエスに付き従う者がいるかどうかのお話である。そして、14章の有名な五つのパンと二匹の魚の奇跡、そして水上歩行の奇跡にしても、それは、信仰を働かせることを教えるものだ。そして最後に、イエスは、信仰を働かせることを学び、イエスをメシヤと認めた弟子たちに、「天の御国の鍵を与える」と言われる。つまり人の魂を救いに導く、神に人々を立ち返らせる事業をあなたがたに委ねると宣言されていて、それは信仰の働きだ、というのだ。
イエスがここで信仰を働かせることを促しているのは、いちじくが実を結ばない逆のこと、つまり形式的な礼拝が取り除かれ、実を結ぶ霊的な生活が実現することである。実を結ばせないようにと山のように立ちはだかる障がいを取り除くのは、信仰のみだということだ。信仰を教えられながら信仰を働かせず、実を結ばないことを嘆いている人は多い。神様はけち臭い方ではないから、我欲に基づく信仰もそれなりに祝してくださるが、実を結んでいると思っている人も、それはただ葉が茂っているだけであったりする。神が期待していることは霊的な実を結ぶことである。我欲の実ではない。真に信仰を働かせ、応答してくださる神にこそ栄光をお返しし、神を証しする霊的な実をこそ求めて結ぶ者でありたい。

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