マタイの福音書22章

イエスが語られた結婚の披露宴のたとえは、基本的に先の二つのたとえ、ふたりの息子(21:28-32)と旅に出かけたぶどう園の農夫(21:33-43)のたとえの繰り返しであるが、より深い決断を迫る内容になっている。というのもこのたとえは、王の婚宴というおそらくこれから先一度限りしかない招待、つまりは終末的な招待について暗示している。そうでありながらも、多くの人は、それに応えようとしなかった。なぜか。彼らの関心は、これから先のことよりも「今、ここ」にあったからである。だから、今という時でなければ二度と巡り来ないこの機会を、いつでもできることに費やすことを選んだのである。

そして神の御心を拒絶してきたユダヤ人的な態度をも再び指摘している。つまり、神に招かれていることを理解しながら、その招きを故意に自分のものにしようとしない者もいる。婚礼の礼服を着ていないことがその象徴だ。彼らはなぜ着てこなかったのか、という問いに黙っていた。つまり彼らは故意に着て来なかったのである。神が用意される義の衣(黙示録3:18)を拒絶するのは、まさにユダヤ人の歴史的な態度そのものであろう。彼らは「婚礼の礼服を着ていない者」であり、自分の義で着飾った者たちであった。

今日のキリスト者も、いつしか、当時のユダヤの律法主義者と同じようになり、神のみこころに無関心となり、ただ自分の義を着飾るだけの、儀式的慣習的な宗教者となっていくとしたらどうだろうか。キリスト者として生きることは毎週礼拝に通い、賛美し、献金をささげ、奉仕をする以上のことである。むしろ、日々神を覚え、その喜びの中に生きていくことに他ならない。この世にありながら、この世を超えた神との交わりの中にあることを楽しみ、神に満足を見出し、神と共に生きていることが大事なことである。そうであればこそ、大切な神の招きにも心と身体が応じるであろう。

ローマに課税することについてのエピソードは、私たちに、神にあってこの世に生きることのバランスを教えている。ローマに課税を認めることは、イスラエルの愛国心を刺激し、イエスに対する反対を強めると予測された。まさにそれは罠として、投げかけられた質問である。ここで言う税金はローマに直接支払われる人頭税であり、ローマのデナリで支払われた。それには、皇帝の肖像と皇帝を「神の子」と呼ぶ刻銘があった。したがって厳格なユダヤ人はこの硬貨に不快感を抱き、通常の取引には違うデナリを用いていた。だが、彼らはまさに皇帝の肖像のついたデナリを手にしながら「カイザルの通貨を用いているのだから、カイザルに返せばよい」と言われたのである。そしてさらにイエスが加えたことばは、神の権威のもとに、ローマ皇帝の権威があることを認めることであった。ユダヤ人は聖と俗を対立するものとして区別しようとしたが、イエスは俗なるものも、神の聖なる支配の中に置かれていることを明確にしている。つまり信仰に生きることは、それほど単純なことではない。私たちは単純にこの世の延長であの世の事も考えやすい。しかし、続く23-33節の復活についてのエピソードも、明らかに霊的なことは、全く新しい思考を必要とすることを教えている。聖書も神の力も、この世の感覚ではとらえきれないものである。この世の感覚で再婚を考えれば、嫉妬と排他性の問題を超克することはできない。しかし、来るべき世はこの世の感覚を超えた世界のお話であるし、この世にあって神に生きることもそうなのである。

ただ原則は決まっている。神を愛し、人を愛して生きる(37、39節)、それがすべてなのであるが、それを実践することは、やはりユダヤ人のように分離主義で生きればよいという単純なものではない。大切なのは、この世にあって、神を認め、神の主権のもとに生き抜いていくことなのだろう。だからマタイは最後に、イエスがダビデの子であることを否定されるような発言を取り上げたが、それはイエスがダビデの子に優る存在であることを示すことにある。イエスは単なる地上の国の王座よりもはるかに高い権威を持った、主であり神なのである。神とは無関係であるようなこの世の現実の中で、目に見えない神の確かなる存在を認め、神に従い神の力を味わい知る、そのような歩みをさせていただこう。

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