マタイの福音書25章

終末と神の国を巡るたとえ話が続く。最初に花婿を迎える十人の娘の話し。次にタラントのたとえ。そして羊と山羊のたとえである。

花婿を迎える十人の娘の内、五人は賢く、五人は愚かな娘であるという話しは、終末への備えのあり方を語っている。これは、24:45-51に描かれた忠実なよいしもべの話しに通じるものだ。しかし、24章の忠実なしもべの話しは、「まだまだ大丈夫だろう」という態度への警告であるが、25章の十人の娘のたとえはこの逆である。愚かな娘たちは、花婿が直ぐにでも来る、という認識は持っていたが、その時が予想以上に遅かったということで、突然その時を迎えなければらなかった状況を語っている。いずれにせよ、これらの物語は、両極端の備えのなさに警告を発している。では、どんな備えが期待されたのか。灯をともすというのは、キリスト者として世の人々と自分を区別するしるし、つまり信仰告白と洗礼を受け、聖餐の恵みに与り、実際に信仰者として生きることだろう。そして、油は、常に霊的な熱心さを持って主に仕えることそのものであろう。つまり賢いキリスト者は、主の再臨を覚えて、絶えず聖霊により頼んで、生きた信仰の歩みをしている人のことである。ちなみにこの愚かな女たちの愚かさは、油を人に分けてくれるように頼んだところである。聖霊は、主ご自身のみが与えてくださるものである。主に直結した信仰こそが、終末にしっかり備えさせることになる。そういう意味で、「神とよき時を過ごす」訓練を自分に課したいものである。

そこで、どんな備えをすべきであったのか。次のタラントと山羊のたとえの二つがそれを教えている。タラントのたとえは、ルカに出てくるミナのたとえと似ているが異なる。タラントのたとえでは、しもべの能力に応じて預けられた量が違っている。ある者は、五タラント、ある者は二タラント、ある者は一タラントというように。ミナのたとえでは、いずれも同じ量、つまり一ミナを与えられている。この違いは何を意味するのか。ミナは、すべての神のしもべが平等に与えられているもの、つまり福音である。タラントはすべての神のしもべが同じではない、個性あるものとして任されているもの、つまり才能や賜物である。ということは、日々、聖霊によって与えられた賜物を十分に生かすように生きているか、それが重要な終末の備えというわけだ。聖霊により頼んで生きた信仰の歩みをするということは、具体的に聖霊に与えられた賜物を日々生かして、神のみこころに生きていくことに他ならない。だから、自分が神に何を与えられているかという自覚とその与えられたものを忠実に活用する心がけが重要なのである。結局、目に見えない神を思い、神を愛する心があるかどうかが、タラントを無駄にするか否かの分かれ目である。

神の忠実なしもべとして、神に与えられているものを十分生かしていく責任が私たちにはある。時間も、お金も、身体も、才能もみな神に与えられたものであれば、それを神の御心に沿って用いていく気持ちが必要だろう。私たちはそれぞれ異なった賜物を与えられている。それをすべて主人が戻ってくる前に、忠実に用いていかなくてはならないのである。だから備えができていることは、弟子として与えられたものをその大小に関らず、忠実に管理し、豊かに活かしていることである。そして三人に対する評価が違うように、責任を果たすというのは、単に失敗しない、ということではなく、むしろ結果を生み出すように精力的に奉仕をしていくことを意味するのである。

ただ、与えられた賜物を用いるというのは、実は、それほど大げさなものではない。本当に小さなことであって、愛の心をもって関心を向けること、気遣いをすること、声をかけること、といったようなものなのであろう。そこで最後に、羊と山羊のたとえはそんな意味付けを与える。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」(37-39節)。賜物を使う、才能を生かすということも、気づかずに行うような小さなことである。神に従おうと一生懸命になる信仰はどこか、ぎこちない。どこかずれている。自然体で、喜びと感謝をもってただ神に従わせていただいている、そんな謙虚な歩みこそが備えある日々を形作る。自分の心が神のみこころにあまりにも集中しているが故に、意図せずにそのことをしていくようなものなのだろう。本当に救われた心を持ち、神を愛することに喜びを持つ一日でありたい。

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