すでに、マタイは、人間イエスの神の子としての系図を示し(1章)、地上の王権に勝る神の子の現れ(2章)、バプテスマによる神の子の承認(3章)を描いてきた。4章において、マタイは序論を要約するかのように、神の子の正体を明らかにしている。
ところで、マタイの福音書を読む時に、モーセ・モチーフという考え方がある。というのも、モーセ五書とマタイの福音書には興味深い対応関係があるからだ。たとえば創世記はイエスの系図に、そして出エジプト記は、2:15の「わが子をエジプトから呼び出した」ということばに共鳴し、紅海徒渉(14:1-31)は、イエスのバプテスマの経験(3:13-17)、荒野の40年(16:1~)の出来事はちょうどこの、イエスの試練(4:1-11)に相当する。それはイエスを、出エジプトを成功させた、第二のモーセ、つまり全人類の救い主と見る試みである。確かに、大雑把ではあるが、そう読めなくもない。
事実、第一の試みは、空腹という人間的な弱さを抱えた、荒野のイスラエルの民の経験に通じるのである。荒野は、伝説では、エリコ北西に平原から300mあまりそびえる、モンス・クアランタナとされている。石灰岩からなる岩だらけの山で、けわしい道が頂上に続き、中腹にはギリシヤ正教会の修道院が立っている。イエスは文字通り、海面下のヨルダン渓谷から、荒野の岩だらけの高地へと上っていかれたのだろう。そこで40日40夜過ごし空腹を感じられた。神の子なのに飢えているのか?神は何もしてくださらないのか?という指摘である。しかし、モーセ時代の荒野にもパンも水も肉もなかった。けれども神が、天から「マナ」を降らせ、岩から水を湧き出させることによって、イスラエルの40年のいのちを守られたのである。神が「光よあれ」と言えば光は生じる。マナがあれと言えばマナが降る。神の祝福に満ちた意思が、人間の幸福の鍵だ、ということを、イエスは間違いなく理解していた。第二の誘惑は、悪魔もみ言葉を用いるのか、と思われる内容であるが、悪魔は詩篇91:11-12を引用し、神の子であるならば、神の意思を表してみよ、と確信に迫っている。イエスは申命記のことばを引用し答え、父に使命を持って遣わされた御子である立場を超えようとしない。つまり、「神の子」は、神の意思に従う者である認識を示している。最後に、悪魔は自分を神とし、自分に服することをそそのかした。いわゆる目的達成のための近道を示唆したのである。かつて荒野で試みられたイスラエルも神ではないものを神とする試練の中で滅んでいったが、まことの神の子であるイエスは、神に忠実な姿勢を明らかにしたのである。これらはすべてイエスの霊の世界の出来事であり、後に弟子たちにわかりやすく図式化して語ったものなのだろう。だがこのエピソードに、神の子、救い主がどんなお方であるかが語り尽くされているのである。
さて、12節から、16:20までがまた新しい区切り、ガリラヤとその周辺での宣教の記録となる。マタイは、福音書のほとんどの部分を北ガリラヤ地方でのイエスの働きに集中させた書き方をしている。この北ガリラヤ地方は、当時ヘロデ・アンティパスが領地としていた場所である。つまり、聖書は「退かれた」と消極的な表現をするが、実際には、バプテスマのヨハネを捕らえ、殺した人物の本領に乗り込む形になっている。まことの神の子であり、万軍の主であるイエスは、ヨハネを殺したアンティパスの領地で堂々とご自身の福音宣教を展開されたということでもある。しかもこの地は異邦人の霊的に暗い地であった。まさにイエスの目からすれば最も闇の深い地域に、イエスは光をもたらすために来られた、と言えるだろう。日本は科学の先進国とは言われるが、霊的には最も暗い最後進国であると言われる。霊的絶対貧困国ナンバーワンというべきだろうか。そこにキリスト者が起こされ、遣わされていることの意義は大きい。
ともあれ、イエスは、悔い改めと神の御国の福音の宣教を開始された。そして、その初めに、弟子を呼び集められた。当時の弟子たちは文字通りラビの後につき、ラビの教えを吸収した。しかしイエスが弟子に期待されたのは、学ぶだけではなく「漁師」としての役割を担うようになることであった。神の救いを受ける恵みよりも、まことの神の子であるイエスの御国を完成させるために、その働き人となっていくことを求められた。私たち日本人が宗教を信じるのは、神に対する奉仕や絶対者への献身からではなく、自分たちの生活に役立てる手段とすることが多い。いわゆるご利益信仰、繁栄を求めての信仰である。だから、教会でも自分のことが何時も優先される信仰者は珍しくはないのである。だがイエスは弟子たちに同労者であることを求められた。神とキリストの喜びを共有することを求められた。今日も、そのような神のご意志を思う、まことの弟子として歩ませていただこう。