マタイの福音書8章

 マタイは、5-7章でイエスのメッセージを取り上げる。それはイエスの権威を明らかにした(7:28-29)。続く8-9章においては、イエスの業(奇跡)が取り上げられる。権威を裏付ける業である。イエスの5つの業がメモ書きのように綴られる。
 まず、一人のツァラアトに冒された人の癒し。旧約聖書では、ツァラアトは、病気というよりも神に対する汚れとして定められていた。それは、医学的衛生的に不潔というのではなく、宗教的に汚れているものであった。だからツァラアトの人は神殿礼拝の特権を得ることもなかった。しかし、新約聖書の時代に至るまでの間、その認識に変化が起こり、ツァラアトは、重大な極悪罪を犯したために受ける重い刑罰と見なされるようになった。そして律法学者たちは彼らに冷たい視線を向け、関わろうとはしなかった。それなのに、彼はイエスを求めて群衆に紛れ込んでいたのでる(1節)。そこにこの人の、イエスの人柄を信頼し、イエスの力に期待する心を見ることができる。事実、イエスは、当時の律法学者であれば近づくこの男に、憎々しげに石を投げたであろうものの、むしろ、そのただれた皮膚に思いやりを持って触り、「きよくなれ」と宣言し、神に対する汚れを取り除かれたのである。ここに律法学者に優る義と実践をするお方がいた。このお方に私たちの希望がある。
 次の百人隊長の奇跡。彼は、ヘロデ・アンティパスの指揮下にある下級将校であった。彼の部隊は、非ユダヤ人によって編成され、彼自身も異邦人のようである。つまり彼もツァラアトに冒された人同様に、本来神に近づくことを許されない人であった。だから彼は、友人を介してイエスの下に来たが(ルカ7:3-5)、大事な点は、神に受け入れられない身でありながら神を求めた点である。注目されるのは、イエスがこの異邦人の信仰を認められ、それがイスラエル人のいかなる信仰よりも勝っていることに驚かれた点である。イエスが称賛されたのは、百人隊長が、ご自分の権威を認め、その権威に信頼した姿である。イエスは、このエピソードに、御国の祝宴のイメージを書き加えている。イエスの権威は、アブラハムの子孫に、異邦人を加える。しかも、世界中からの異邦人が加えられる。やがてイエスが君臨され、天において完成される御国のイメージがはっきりと伝えられる(黙示録7:9)。それは、イエスの権威を認め、イエスの権威に服し、信頼する者たちの集まりである。信仰を持って主の言葉を受け入れる者の群れである。
第三に癒されたのは女性、ペテロのしゅうとめであった(14-17)。マタイはこれが預言者イザヤを通して言われたことの成就であると、ここで一区切りをつけている。つまり三つの奇蹟の出来事は、イエスのメシヤ性を認めるものであったと明言しているのである。イザヤ書では「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」とある。病そのものも、宗教的偏見や差別で虐げられた者も、皆キリストに望みを見出した。誰もがイエスに新しい時代の訪れを感じたことだろう。ともあれ、イエスに従う者が、自然に起こされていく(19節)。しかしメシヤとしての権威を示されたイエスに従うことは、安定と繁栄の道ではない(20節)。それは十字架への道であった。そしてイエスに従うことは、絶対的な急務である(22節)。
 8章後半から、力の奇蹟が記録される。嵐を静める奇跡、そしてガダラ人の地での悪霊を追い出す奇跡である。マルコやルカの平行記事を読み比べることでもわかることであるが、マタイはここでもイエスの権威に関心を抱いている。彼の権威は、人に対するだけのものではない、自然に対しても、また超自然的な力対しても及ぶのである。悪霊に憑かれた人は、イエスを「神の子」と呼んだ。イエスを信じることは、イエスの神の子としての権威を認めることに他ならない。イエスを確かに信頼して歩む者であろう。

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