マタイの福音書9章

 マタイは、8:18からイエスの三つの権威を示している。嵐も海も全被造物を従わせる権威(8:18-27)、悪霊を追い出す権威(8:28-32)、そして今日読む9:1-8に書かれた、地上で罪を赦す権威である。マタイはマルコのように、中風の人が天井の穴からつり降ろされたエピソードを省略し、ただ、イエスと中風の人との対話のみに注目を向けさせている。また、この人が癒されたことよりも、イエスの権威のもう一つの側面、罪赦す権威へと読者の関心を向ける。そして三つのグループとの対話が、記録される。
第一に、律法学者との対話。ルカによれば、この律法学者は、たまたまそこに居合わせた者たちではない。イエスの噂を聞き付けて、イエスを危険分子とし訴えるために監視していた者たちである。その彼等が、人の罪を赦す権威は神にしかない、と考えていた点は正しかった。しかし、イエスをその当事者であり、神であると認めることはできなかったのである。だがイエスは彼等と真っ向から対立し、ご自身がそのようなものであることを明確に示された。イエスは、ご自身が単なる教師でも預言者でもなく、救い主、メシヤであることを示された。実際イエスは、十字架により全人類の罪の赦しのための尊い犠牲となられた。イエスは、まことに神の子であり、救い主であったのである。
次に、パリサイ人との対話。彼らは、心の中で思うのみならず、実際に、イエスの交際について聞こえよがしに批判した。マタイはカペナウムの収税所で働く通行税を徴収する取税人であったと考えられている。彼はその仕事柄、異邦人と接触し宗教的な汚れを受けるとも、また、非愛国者とも見なされ、疎まれる存在であった。だからそのような取税人や罪人と共に食事をするなら、そこに当然食物に関する宗教的な規定に違反するものがあり、汚れを受け、イエスのやっていることは正しくないとなるだろう。しかしイエスは、これが単なる懇親の時ではなく、宣教目的の機会である、と語る。イエスが引用したホセアの預言(13節)は、魂の抜けた、形骸化し形式的になったパリサイ人の信仰に対する批判である。イエスは罪人を救う熱意を示された。そして、神が何よりも罪人にあわれみを示す神であることを明確にしている。
 第三に、ヨハネの弟子たちが、イエスの敬虔さに疑問を発した。これまでの流れは、山上の垂訓を思い起こさせるところである。つまり律法学者に優る義(5章)、パリサイ人にまさる義(6章)、そしてキリスト者の義(7章)というように、ここでも、イエスの弟子である者はどのように生きるか、ということがヨハネの弟子たちとの対話の焦点となっているからである。彼らは、イエスの弟子たちが断食をしないことを問題にした。しかし、イエスは敬虔さよりも、信仰の喜びを重視した。そして古い慣習を惰性的に続けることよりも、新しい神のいのちに生きることが大事である、と諭していく。新しいいのちは常に新しい革袋を必要とする。キリスト者の生活は、救いの喜びを基調とし、神の新しいいのちに積極的に生きていくものである。
 18節以降、次々と奇跡が簡略に書き留められている。会堂管理者の娘の奇跡、12年の間長血を患っている女の癒し、二人の盲人の奇跡、悪霊につかれて口のきけない人の癒しである。これらの奇跡について、マタイは、マルコのように詳細な記録をしない。ただ、イエスに助けを求める者たちの信仰に注意を向けさせている。会堂管理者は言った「娘がいま死にました。でも、~御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」(18節)。12年の間長血を患っている女は考えた「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」(21節)。「わたしにそんなことができると信じるのか、と言われると、彼らはそうです。主よ、と言った」(28節)。イエスは、「あなたの信仰があなたを直した」と、助けを求める者の信仰を祝された。私たちに必要とされるのは、率直で素直な、神の力に対する信頼である。あわれみ深い主を認める信仰である。
35節は4:23節の繰り返しであり、ここがまた一つの区切りとあっている。イエスがご自身の権威を、弟子たちに分け与えた10章についてはまた明日見ることとしよう。

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