マルコの福音書11章

ここからはエルサレムを舞台としている。いわゆる勝利の入場であるが、これは旧約預言の成就として語られている。イエスは二人の弟子たちを先に遣わすのであるが、事前に何らかの手配でもしていたのであろうかと思わされるところである。しかし、それはむしろ信仰を試される命令であったのだろう。イエスに命じられた通りにしてみたところ、そのような備えがあった、ということである。それはちょうど、エリヤが後継者エリシャを見出したエピソードに通じるものがある(1列王19:19)f。
イエスは歓喜を持って迎えられた。迎えた者たちは巡礼者でもあるが、イエスを「来るべき方」、ダビデの子として呼んだ。しかし不思議なことに彼らの信仰告白は表面的なもので、彼らの人生を従わせるものではなかった。マルコは、こうした巡礼者の行動に意義を唱えたパリサイ人たちについては触れていない。しかしエルサレムに到着した後、宮を調べたものの、時刻が遅かったので何もしなかったことをあきらかにしている。マルコは先に、イエスが、群衆の集まったのを見て奇蹟を行ったことを記しているが、ここでも、何やら、宮清めをする前に下調べをしているイエスの姿がある。こうしてみると、マルコは、効果的に物事を進めるイエスを描いているようでもある。
ともあれイエスは、その日、ベタニヤに帰った。それは、オリーブ山の東麓に位置する。今日エルサレム市内には、ミクベ(沐浴場)付きの家の跡が発掘されているが、そこは金持ちが泊まる場所であるという。貧しい人々は、エルサレム郊外に宿泊先を見つけていたようである。イエスはまさに貧しい人々と共に行動した、ということなのだろう。ともあれ、口先の歓迎、宿泊先のないエルサレム、全ては象徴的である。
いちじくの木とぶどうの木は、伝統的にイスラエルの象徴とされる。よってこのいちじくに対する呪いも行為によるたとえと考えるべきなのだろう。イエスは単に破壊的な奇跡を行ったわけではない。そこに神の民に対するメッセージがあった。つまり、必要とされる時に実を結んでいないいちじくは、まさに主の来臨の時に備えられていないイスラエルそのものであり、神がそのイスラエルをお裁きになるというしるしである。続く宮清めの裁きも同様に行為のたとえである。つまり、実際に神が望んでいるところとは異なる、腐ったぶどうというべき、形式化世俗化した信仰の状況に、神がさばきをくだされることの象徴なのである。神殿は、単に動物の生贄をささげる宗教儀式をする場となり、さらにビジネスの場、いわゆる貪欲に金儲けをされる場となっていた。しかしイエスは、神殿は祈りの場、神とよき時を過ごす場として見ていたのである。また、そこには「あらゆる民の」ものであった、という本来の神の期待を示した。
マルコはイエスが旧約聖書を引用して自らの教えの正しさを論証したことを記録するが、それはイザヤ書56:7とエレミヤ書7:11の合成である。そこには二つの文脈が意識されている。一つは、外国人の改宗者がやがて神殿に喜んで迎えられるというもの。そしてユダヤ人に対する容赦ない裁きがあるというものである。実際、もう間もなく、ユダヤ人と非ユダヤ人の隔ての壁は、イエスの十字架により打ち壊され、一つとされるはずであった(ヨハネ11:51-52)。そして、イエスを受け入れないユダヤ人には裁きがくだされるという。
祭司長や律法学者たちがイエスを恐れたのは、これが権威ある神のことばとして語られるのを感じたからであろう。いちじくのたとえと、宮清めの出来事は絡みあっている。マルコは二つの出来事を取り上げながら、当時の読者のみならず、今日の読者も、イエスの言葉にどのように応答するかで、それにふさわしい結果を得ることを語っている。
いちじくの木が枯れたのは、祈りのパワーについて語っているのではない。イエスと神との硬い結びつきを証している。神を信じ神と一つである、イエスの言葉の権威を示している。ただイエスは本質的に赦しの方であることをわかっていなければならない。だから、イエスの権威を問題にする祭司長、律法学者長老たちとの最後の議論は、実によくできた「落ち」となっている。イエスの権威を天からのものと素直に認めるのか、それともあくまでもイエスを認めることができず、苦し紛れに「分かりません」と答えるのか、ご自身を神と等しくされるイエスを、どのように受け止め、応じるのかが問われている。マルコの書き方は実に伝道的で、読者に決断を促そうとしているのである。主イエスを、神の子、救い主として認めたいところではないだろうか。

 

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