マルコの福音書12章

イエスの宮清めの事件の後、祭司長、律法学者たちは、イエスを殺そうと考えるようになった(18節)。イエスは、たとえをもってその心を指摘する。ぶどう園の農夫の物語である。農夫が遣わしたしもべたちは、これまで旧約聖書の時代からバプテスマのヨハネまで、遣わされてきた預言者たちのことである。ユダヤ人は、預言者を受け入れず、悔い改めようとしなかった。むしろ、エリヤやエレミヤの例に見られるように人々は預言者たちを捕らえて辱め、打ちたたき、これに従おうとはしなかったのである。愛する息子は、イエスご自身を指している。つまり、このたとえは、イエスの受難を予告しているのである。そして、続く律法学者との問答において、イエスは単にこれまでの預言者たちと同様に扱われるのではなく、神のいけにえとして受難することを語っている点に注目すべきである。イエスの死は、単なる妬みや敵意によるものではなく、神のご計画であり、目的であった、ということだ。というのは、ユダヤ人が祭壇にささげるいけにえは、傷のないものでなければならなかった(出エジプト12:1-8)。そこでこれらイエスを罠に陥れるための問答は、イエスが十字架にささげられるべく傷のない神の小羊であることを証していく。

ところで、当時パレスチナは、ローマの支配下にあり、三つに分割統治されていた。北側のガリラヤとベレヤ、東北のバシャン、そしてユダヤとサマリヤである。それぞれの地方を、ローマ皇帝に任命された3人の王が統治していた。ところが、ユダヤとサマリヤを任されたアケラオ王は、能力不足で、結局、この地方だけは、ローマ帝国の直接統治区域とされていた。そしてユダヤとサマリヤの地方は、特別に軍隊が駐留し、この地方に課せられる税金も、ローマ皇帝(カイザル)に直接治められていたのである。このような税金制度に、強く反対するユダヤ人グループに囲まれながら、イエスは「カイザルに税金を納めるべきか納めるべきでないか」と質問されたのである。しかしイエスはこの罠に陥ることなく、カイザルの支配が及ばないもう一つの世界、天地万物をお造りになった神の支配の下に私たちがあることを明確にしている。信仰的に保守的で聖書を生活規範の第一とするパリサイ人には、そのツボを押すだけで十分であった(13-17)。

続くサドカイ人の神学的な議論(18-27)については、復活を否定する彼らの核心的な問題を、彼らが自分たちの神学的唯一の根拠とするモーセの書から論破している。つまり、彼らが信奉するモーセは、アブラハム、イサク、ヤコブにご自身を現し導かれた神と出会っている。モーセは永遠の神と出会い、永遠の神と共に歩んだ。復活や永遠のいのちは、この神の性質とともにあるものであり、否定されるものではなく信じるべきものである。

最後に律法学者は、イエスの正しさを認め、イエスを受け入れざるを得ないことを認めている(28-34)。こうして「カイザルのものはカイザルに、そして神のものは神へ」「神は死んだ物の神ではない」「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という名言も残されることになる。このような方が十字架にかけられたのである。

こうした出来事を背景に、マルコは、さらに伝道的なエピソードを挿入する。「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのだろうか」(37節)つまりメシヤをダビデの子と理解するだけであっては不十分ではないか、ということである。ダビデ自身が、自分の子孫から出るキリストを主と呼んでいる。来るべき方は地上の権力を超越したお方なのだ。つまりは、この地上の政治的な救い主という以上の意味を持つ、まさに、全歴史の万民の救い主ではないか。イエスの十字架は、単にこの時代の陰謀による事件だったのではなく、神の子羊を永遠の罪の赦しのためにささげる神のご計画だったのだ、というわけで、イエスを救い主として受け入れるか否かのチャレンジを与えているのである。

そして、最後の、律法学者とレプタ銅貨を投げ入れた貧しいやもめの話は、対比的で、示唆に富んだこの章のしめくくりとなっている。イエスを罠に陥れようとした律法学者たちは、外面的な体裁を大事に、金銭を愛し、見栄を張る、偽善的な信仰生活をしていた。これに対して、貧しいやもめは、自分のために銅貨を一枚残すこともできたが、そんなことをせず、ただ、その純粋にすべてをささげて生きる姿勢を明らかにした。神を呼び求めながらも、目に見える世界を強力に意識して生きているパリサイ人と、はっきりと神の支配を覚えて、神にささげて生きている者の違いがそこにある。キリスト者として生きることは、かつてアブラハム、イサク、ヤコブがそうであったように、目に見えない神を覚え、その神に従い、神の導きを最善として生きていくことに他ならない。聖書を教えられながら神の力も聖書も知らないような生き方であってはならないのである。

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