マルコの福音書6章

場面はヨルダン(1章)からカペナウム(2-4章)、ゲラサ人の地(5章)、そしてイエスの郷里ナザレへと移っていく。イエスを小さなころからよく知っている地元の人々は、イエスの話を聞きながらイエスにつまずいた。イエスを預言者としても、まして神としても認めることができないでいたのである。彼らは、パリサイ人同様に、イエスの権威に躓いた。ところで、イエスが宣教を開始した後、ナザレを訪問したのは、これが初めてではない。ルカ4:16-30によれば、これは約1年後の二度目の訪問となる。最初の訪問で、イエスは怒り狂った人々に丘の崖っぷちから突き落とされそうになっている。それから1年後、彼らは、イエスの噂を耳にしていたのであろう、その話に耳を傾けるのであるが、やはり、イエスが神の子ではなく、大工の子であることに拘った。不思議なものである。イエスが地上の権力者の家に生まれていたならば、どんなにか違った形で受け入れられたであろうに、と思うのであるが、神はそうはなさらなかった。神は人間的にみれば最も愚かな方法を取られたが、後に最も優れた結果を生み出されることになる(ピリピ2:6,7)。興味深いことであるが、ここではイエスに人々が驚いているだけでない、イエスご自身も彼等の不信仰に驚いている。イエスの神性は明らかであるのに彼等はそれを受け入れることができないでいた。
イエスはナザレの近くの村々を教えて回られた。さらに十二弟子を呼び、彼らを派遣し、ご自身の働きを拡大された。彼らは、汚れた霊を追い出し(7節)、悔い改めを説き(12節)、病人を癒した(13節)。彼らは喜んで、福音を語り伝えることを勧められたが、敵対的な環境において語り続けるようには進められなかった。宣教に粘り強さは必要であろうが、聞こうとしない者に強制する必要はないのである。
さてこのガリラヤ伝道において、イエスは初めてヘロデに覚えられている。17節から29節は、いわゆる挿入であり、ヨハネの逮捕とその処刑のいきさつが描かれている。ヘロデは、ヨハネを殺した呵責から未だに解放されていなかった。というのも彼は、ヨハネの教えを喜んでいたのである。「非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」(20節)ということばが彼の心の状態を良く表している。種まきのたとえで言えば、まさにいばらの地に落ちた種のようなもので、彼は信仰の芽を心に抱きながら世と世の欲求に打ち負かされる人生を歩んでいたのである。ヨハネは殺された。なお、マルコがこのエピソードを取り上げたのは、自身の福音書の頂点、あるいは折り返し地点である8章後半のペテロの告白に向かって、ヘロデのイエス観を取り上げておく必要があったからなのであろう。ヘロデも、ナザレの人々同様に、イエスを正しくは理解していなかった。
さて五つのパンと二匹の魚のエピソードは、共観福音書(マタイ14:13-21、ルカ9:10-17)とヨハネの福音書と四福音書が、すべてとりあげる、唯一の奇蹟となっている。このエピソードには幾つかの意味があろうかと思う。まず、イエスはこの群集を「深くあわれんで」(マタイ14:14)また「喜んで」(ルカ9:11)迎えられたとあるが、このとき、イエスと弟子たちはすでに疲れきっていた。実際、親しくしていたバプテスマのヨハネが、虫けらのようにヘロデ王に殺される悲しい出来事の後でもあった。にもかかわらず、神のみこころは彼等を休ませることにはなかった。正直弟子たちはうんざりした。しかしまことの神の僕イエスは疲労感の中で神のみこころに従うことを厭わなかった。彼は極度の疲労の中でも主の必要に答え要とした。イエスの人生は神のみこころに献げられた人生であった。そしてこのエピソードは献げられた人生を神が祝し用いてくださることを伝えている。イエスの神の応答もそうであるが、少年が献げた二匹の魚とパンもまさにそのことを象徴している。
さらにイエスはこの奇跡をもって、人々が、イエスご自身をバプテスマのヨハネの再来でも、かの預言者でもなく、神であることを認めることのできる機会とした。また嵐を静める奇跡は、再度弟子たちに、神であることを認めさせる機会を与えると同時に信仰を働かせる機会を得させようとするものであった。これまでの流れからすると、持つべき人が持っておらず、持つはずもない人が持っているというのがイエスに対する信仰である。当然イエスの弟子と自負し信仰者としてあるならー信仰的応答がなければならないーしかし彼らにそのあるべきものがなかった。神の身内として神のみこころを行う仲間として彼らに必須のものを彼らは持たなかった、イエスはそれを自覚させようとする。私たちも同じであるかも知れない。決して誇れるべきものを持たないでいる私たちの現実を覚えながらイエスに従うものでありたい。

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